御堂の沈黙
御堂孝之の自宅は、世田谷の住宅街にあった。
二階建ての一軒家。庭に植わった金木犀が、季節外れの沈黙を保っている。冴は門扉の前に立ち、インターホンを押した。手の中に母の同意書のコピーを握っていた。
「冴くん。珍しいね、予告なしで来るなんて」
御堂が玄関を開けた。六十二歳。引退してから白髪が増えた。だが目は鋭いままだった。冴を見る目が一瞬だけ曇ったのを、冴は見逃さなかった。
「先生。お話があります」
「入りなさい。お茶を淹れよう」
書斎に通された。壁一面の書棚。法医学と神経科学の専門書が並んでいる。窓際の机には開きかけの論文と万年筆。引退しても研究を続けている。御堂はそういう人だった。
緑茶が注がれた。御堂は冴の向かいに座った。穏やかな表情。だがその穏やかさの下に、緊張が見えた。冴は白衣越しに何百もの筋肉の微細な動きを読んできた。御堂の肩甲骨が僅かに上がっている。防御姿勢だ。
「先生」
冴は同意書のコピーをテーブルに置いた。
御堂の目が同意書に落ちた。数秒間、動きが止まった。呼吸すら止まったように見えた。
「それを、どこで」
「母の遺品箱の中に」
御堂は同意書を手に取った。紙が微かに震えていた。老いた指が、文字を辿る。自分の名前が印字された研究責任者の欄を見つめた。
「先生。残留記憶感応性試験とは何ですか。私に何をしたんですか」
御堂は長い沈黙の後、顔を上げた。目が赤くなっていた。
「冴くん。今はまだ話せないことがある」
「話せない」
「話すべき時が来ていないんだ。今話せば、君を危険に晒す」
「もう充分危険です。刺されました。七つの事件の被害者は全員殺されています。嶋田さんは左遷されました。これ以上、何の危険があるんですか」
冴の声が大きくなっていた。自分でも制御できない感情が込み上げる。御堂の前で声を荒げたのは初めてだった。
御堂は目を伏せた。テーブルの上の緑茶が、光を反射して揺れている。
「今はまだ話せないことがある。許してほしい」
「許す。先生、許すと言ってほしいんですか」
沈黙が落ちた。庭で鳥が鳴いた。金木犀の葉がかすかに揺れる音がした。
御堂が顔を上げた。目に涙が浮かんでいた。冴は息を呑んだ。御堂の泣く姿を見たのは初めてだった。
「一つだけ、言わせてくれ」
御堂の声がかすれていた。
「神崎という男には、気をつけなさい」
冴は固まった。御堂が初めて神崎の名を口にした。電話で「鏡花」を聞いたときは「聞いたことがない」と否定した。神崎の名すら出さなかった。それが今、自ら名前を出した。
「神崎を知っているんですね」
「知っている」
「鏡花プロジェクトで一緒だった」
御堂は答えなかった。だが否定もしなかった。
「先生。私は自分が何者なのか知りたい。この能力がどこから来たのか。なぜ五歳から七歳の記憶がないのか。そして、もう一人の被験者は誰なのか」
「もう一人」
御堂の顔が強張った。
「先生。被験者は二人いた。私と、鈴音という女の子。鈴音は今どこにいるんですか」
御堂の顔色が変わった。血の気が引いていく。白くなった唇が震えていた。
「鈴音のことを。どこで」
「関口という元刑事の手帳に。それと、母の手帳に鈴音ちゃんという名前がありました。私が検査を受けていた時に友達になった女の子」
御堂が立ち上がった。窓際に歩いて行き、庭を見つめた。背中が丸まっている。六十二歳の背中が、急に十歳老けたように見えた。
「鈴音のことは――話してはならない」
「誰に禁じられているんですか」
「冴くん。頼む。もう少しだけ待ってくれ。私にも覚悟がいるんだ。すべてを話す覚悟が」
冴はテーブルの同意書を手に取った。立ち上がり、御堂の背中に向かって言った。
「先生。私はあなたを恩師だと思ってきた。十年以上。能力のことを打ち明けたのも先生が最初だった。先生だけが、私の全てを知っていると思っていた」
「冴くん」
「でも先生は、私の全てを作った側の人間だった」
冴は書斎を出た。玄関で靴を履きながら、廊下の奥から御堂の嗚咽が聞こえた。
門扉を閉めた。世田谷の住宅街は穏やかだった。桜はもう散り終わっていた。緑の葉が風に揺れている。
冴が角を曲がった直後、御堂の書斎の窓が開いた。御堂がスマートフォンを取り出し、誰かに電話をかけている。
「冴くんが気づき始めた。もう時間がない」
御堂の声は震えていた。だが電話の相手は分からない。冴にはもう聞こえなかった。




