香水の正体
調香師の工房は、表参道の裏通りにあった。
古いビルの二階。狭い階段を上がると、扉を開ける前から匂いの壁が冴を押し返した。何百もの香料が調合され、混じり合い、空間そのものが一つの巨大な香りになっている。
冴の鼻腔が反射的に縮んだ。記憶を食べるとき、嗅覚は最も鋭くなる。死者の記憶に充満する匂い。それが冴の日常的な嗅覚にも影響を与えていた。
「朽木先生と嶋田さんですね。お約束の方」
工房の主人は五十代の女性だった。白髪混じりのショートカット。エプロンの胸元にいくつものムエットが挟まれている。
「香料専門家の蒲田さんを紹介してもらいました」
嶋田が名刺を出した。嶋田は左遷の内示を受けた翌日から、残りの日数を全力で使っていた。現場にいられる最後の数週間。一分も無駄にしない覚悟が動作の端々に滲んでいた。
「この匂いについて、お聞きしたいことがあります」
冴がジップロックに入れた布切れを差し出した。園部の記憶を食べた際に、冴が自分の手首に香りを付着させたものだった。記憶の中の匂いを、現実の嗅覚に変換する作業。冴にしかできない証拠収集法。
蒲田が布を鼻に近づけ、目を閉じた。三秒。五秒。十秒。
「ジャスミン。バニラ。ムスク。そしてアルデヒド」
「分かりますか」
「ベースはジャスミン・サンバックの精油。中東産の高品質なもの。バニラは天然のバニラビーンズからの抽出。合成バニリンではない。ムスクはホワイトムスク系。そしてトップノートにアルデヒドのシャープな立ち上がり」
蒲田がムエットに何かを書き込んだ。
「これはカスタムブレンドです。大量生産品ではありません。調合師が個人の依頼で作った一点物」
「一点物」
「配合の比率が独特です。ジャスミンの割合が通常より高く、バニラとの相性を考えた特殊な処理がされている。これを作れる調合師は国内でも限られます」
冴と嶋田が顔を見合わせた。
「調合師リストは作れますか」
「このレベルの技術を持つ人間なら、十人以内に絞れるでしょう。私自身も候補に入りますが、この配合は作ったことがない」
蒲田がパソコンに向かい、リストを作り始めた。冴は工房の棚を見た。何百もの小瓶が並んでいる。琥珀色、透明、薄緑。それぞれが異なる匂いを持ち、組み合わせによって無限の香りが生まれる。
犯人はこの中から自分だけの香りを選んだ。なぜ香水を使うのか。犯行現場に匂いを残すリスクを冒してまで。通常の犯罪者なら、体臭を消す方向に努力する。だがこの犯人は逆だ。自分の匂いを意図的に残している。
冴は棚に並ぶ小瓶を見つめた。ジャスミン。バニラ。ムスク。それぞれの匂いが個別に脳に刺さる。記憶を食べた三人の被害者全員が、この匂いを最期に嗅いでいた。死の直前の記憶に焼きつく匂い。犯人はそれを分かった上で纏っている。
答えは一つ。犯人にとって、この香りはアイデンティティだった。自分が何者であるかを示す唯一のもの。名前を持たず、記録を消され、神崎の管理下に置かれた人間が、自分の存在を証明するための香り。被害者の記憶に自分の痕跡を刻む。冴がいつかその記憶を食べ、自分に気づいてくれることを信じて。
「リストです」
蒲田がプリントアウトを渡した。八名の調合師の名前と所在地。
「ありがとうございます」
◇
工房を出た後、嶋田が安西に電話した。調合師リストの追跡を依頼する。表参道の人混みの中を歩きながら、冴の隣で嶋田が通話している。
電話を切った嶋田が、低い声で言った。
「安西がもう一つ見つけた」
「何を」
「関口の最後の調査対象。デジタル遺品の完全解析が終わった。関口が最後に検索したキーワードがある」
嶋田がスマートフォンの画面を見せた。安西から転送されたメッセージ。冴は画面に目を凝らした。
関口の検索ログの最終エントリ。死の三日前の深夜一時に入力されたもの。
「御堂孝之 鏡花プロジェクト 被験者」
最後の検索。深夜。関口はこの検索の三日後に自宅で刺された。
冴は足を止めた。表参道のケヤキ並木の下。人波が冴を避けて流れていく。
「関口さんも、御堂先生に辿り着いていた」
「ああ。関口は御堂を調べていた。そして殺された」
「神崎が残したメモも御堂の名前だった。関口の最後の検索も御堂の名前」
すべてが御堂孝之に向かっている。恩師。冴の能力を最初に打ち明けた人物。冴を「冴くん」と呼ぶ穏やかな老教授。
だがその穏やかさの下に何があるのか。冴は御堂の目を思い出した。電話で「鏡花」を問うたとき、三秒の沈黙があった。あの三秒に、何が渦巻いていたのか。
「嶋田さん。御堂先生に会いに行きます」
「一人でか」
「御堂先生は、私の前でなければ本当のことを話さない」
嶋田は数秒黙った。それから頷いた。
「分かった。だが終わったらすぐ連絡しろ」
「はい」
冴は表参道の人混みの中に消えていった。嶋田はその背中を見送った。小柄な背中が群衆に紛れていく。
嶋田の手が胸ポケットの辞令に触れた。あと二週間。それまでに、できることを全てやる。
香水の正体は掴んだ。調合師リストを辿れば、注文者に辿り着く。そして注文者の名前が分かれば、七つの事件の犯人が特定できる。
ケヤキの葉が風に揺れた。甘い匂いは、もうどこにもなかった。




