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死者の記憶を食べる検屍官、自分を殺した犯人を追ううちに七つの未解決事件の真相に辿り着く  作者: ぽんぽこライフ


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法医学者の目

 桐生薫の研究室は、東都大学のものより整然としていた。


 白いデスクに白いモニター。書棚には法医学のテキストと学術誌が背表紙の色ごとに並べられている。窓辺に小さな観葉植物が一鉢。薫の性格が部屋に染み出ていた。


 冴が訪れたのは午後三時だった。薫の大学病院は東都大学から電車で四十分。冴がここに来るのは三年ぶりだった。


「座って。お茶入れる」


 薫がマグカップにほうじ茶を注いだ。湯気がふわりと立つ。冴は椅子に座り、デスクの上に広げられた資料を見た。


「結果が出たの」


「ええ。園部真司の肺組織標本の再鑑定結果」


 薫がファイルを開いた。グラフと数値が並んでいる。薫の万年筆による注釈が余白に書き込まれていた。


「肺水中の塩化物イオン濃度を分析しました。結論から言うと、荒川の河川水とは組成が一致しません」


 冴の背筋が伸びた。


「一致しない」


「荒川の淡水溺死であれば、塩化物イオン濃度は非常に低いはずです。ところが園部の肺水からは、河川水と海水の中間的な濃度の塩化物イオンが検出されました」


「中間的。つまり汽水域の可能性?」


「最初はそう考えました。荒川の河口付近なら海水が混じる。でも遺体の発見場所は上流で、汽水域ではない。それに、検出された塩化物イオンの組成パターンが天然水とは異なるんです」


 薫がグラフを指差した。折れ線が不自然な角度を描いている。


「人工的に調整された水の特徴です。プールの消毒処理水、あるいは研究施設の洗浄水。そういった人工水源に近い組成です」


「園部は荒川で溺れたのではない」


「別の場所で溺れさせられた後、荒川に遺棄されたと考えるのが合理的です」


 冴は息を吐いた。法医学的な裏付け。園部の記憶で見たものと一致する。園部は河川敷に連れ出される前に、別の場所で意識を失わせられ、水に沈められた。


「もう一つ」


 薫が別のファイルを出した。


「血液残存成分の分析で、微量の鎮静剤成分を検出しました」


 薫の声が低くなった。法医学者が重要な所見を報告するときの声だった。冴にも覚えのある声。


「三年前の検屍では見逃されていたものです。標本の保存状態が良く、血液中の微量成分が残存していました。当時のスクリーニング検査では検出限界以下だったのでしょう」


「鎮静剤の種類は」


 薫は一拍置いて答えた。


「トリカルバゾン系の化合物です。市販の睡眠薬とは異なり、研究段階の合成化合物。臨床で使われたことはありません」


「研究段階の」


「そう。そしてこの化合物を合成する技術を持っていた機関を調べました」


 薫がモニターに論文のリストを表示した。


「東栄製薬の創薬研究部。園部が所属していた部門です」


 冴は椅子の背にもたれた。園部は自分の勤務先で開発された薬で眠らされ、殺された。研究員が自分の研究の産物で命を奪われる。皮肉という言葉では足りない残酷さだった。


「薫」


「何」


「これは、法廷で使える証拠になる」


「なります。再鑑定報告書として正式にまとめます。ただし」


 薫は万年筆をデスクに置いた。冴を見つめた。その目に、法医学者の冷静さと、もう一つの感情が混在していた。


「冴。鎮静剤の化合物を特定する過程で、東栄製薬の論文にアクセスしました。その閲覧ログは残っています。もし神崎がそのログを見れば、私の動きも把握される」


「分かっている」


「分かっていて、私に依頼したの」


 冴は言葉に詰まった。分かっていた。薫を巻き込んでいることを。嶋田を左遷に追い込んだように、薫にも同じ危険が迫る可能性を。


「すまない」


「謝らないで。私は自分の意志で再鑑定をした。法医学者として、正しい死因を明らかにするために」


 薫が立ち上がった。窓際に歩いて行き、外を見た。夕陽がビルの隙間から差し込んでいる。薫の横顔が金色に縁取られていた。


「三年前、あなたが隠し事をしているのは分かっていた。何を隠しているのかは分からなかった。でも今は、少しだけ分かる」


「薫」


「あなたは、死者の声を聞いている。法医学だけでは説明できない何かで」


 冴は答えなかった。薫は振り返った。


「今は聞かない。でもいつか、話して」


「……ああ」


 二人の間に沈黙が落ちた。ほうじ茶の湯気はもう消えていた。窓の外の夕陽が、一段と赤みを増した。


「それと」


 薫が声を少し落とした。


「鎮静剤の化合物。これを合成していたのは園部本人の所属チームです。つまり園部は自分が関わった研究の薬物で眠らされた。犯人はその化合物の存在を知っていた。東栄製薬の内部情報にアクセスできる人物か、あるいは園部自身から情報を引き出した人物」


「園部の記憶では、河川敷に行く前に缶コーヒーを飲んでいた。自販機の脇に置かれていたもの」


「事前に仕込まれていたのなら、犯人は園部の行動を予測していた。待ち合わせ場所も時間も知っていた」


 冴は頷いた。犯人は園部と接触し、データの受け渡しを約束させ、その場所に罠を仕掛けた。計画的で、周到で、そして――苦痛を最小限にする配慮があった。


 園部は眠ったまま水に沈められた。苦しまなかったかもしれない。


 冴は目を閉じた。犯人の輪郭が、また少し鮮明になった。


 帰りの電車で、冴はスマートフォンを見つめた。薫からのメッセージが一件。


「再鑑定報告書は今週中にまとめます。何かあったらいつでも」


 冴は返信した。


「ありがとう。気をつけて」


 三年前には送れなかった言葉。今も、まだ足りない。だが薫はそれを分かった上で受け入れてくれている。


 電車の窓に映る自分の顔が、少しだけ柔らかくなっている気がした。

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