嶋田の孤立
嶋田耕一は、人事課からの封筒を見つめていた。
捜査一課のデスク。朝の騒がしさの中で、嶋田だけが静止していた。封筒の中身は一枚の辞令。異動内示。赴任先は総務部庶務課。事実上の左遷だった。
発令は来月一日。あと三週間。
「嶋田さん」
安西が横から覗き込んだ。嶋田は辞令を封筒に戻した。
「何だ」
「顔色が悪いです」
「アンパン食い過ぎた」
安西は嶋田の嘘を見抜いていたが、追及しなかった。デスクに戻り、自分のモニターに向かった。
嶋田はコーヒーを飲んだ。ぬるい。総務部庶務課。三十年近く現場にいた男を、書類の山に埋めようという人事。偶然のタイミングではない。神崎だ。嶋田が園部と関口の事件を掘り返していることへの報復。
だが嶋田には怒りより先に、ある種の納得があった。こうなることは分かっていた。非公式捜査を続ければ、いずれ組織からの報いが来る。関口も同じだった。組織に逆らった人間は、静かに排除される。関口は殺された。嶋田は異動で済んだ。まだましだと言えるのかもしれない。
デスクの引き出しを開けた。関口の手帳のコピーが入っている。嶋田はそれを指で撫でた。お前のぶんまで、俺がやる。
◇
昼休み、嶋田は冴を呼び出した。警視庁近くの公園のベンチ。桜が散り始めていた。花びらが地面に薄桃色の模様を作っている。
「異動の内示が出た」
冴の顔が強張った。
「いつ」
「来月一日付で総務部庶務課。現場を外される」
「神崎が」
「名前は出てないが、タイミングが出来すぎだ。園部と関口の件を洗い始めた直後。再捜査申請が潰された翌週」
冴は唇を引き結んだ。風が吹いて、桜の花びらが冴の肩に落ちた。冴は気づかなかった。
「嶋田さん。もう協力しなくていい。これ以上は」
「何を言ってる」
「あなたの家族に影響が出る。奥さんと、娘さんに」
嶋田は花びらを手で払った。自分の肩ではなく、冴の肩のものを。
「朽木先生。俺はこの仕事を三十年やってきた。未解決事件を追うのは俺の仕事だ。人事異動で辞めるような安い矜持じゃない」
「でも」
「だが、やり方は変える」
嶋田は公園の向かいの建物を見た。警視庁の庁舎。自分が三十年通った場所。
「安西に全部渡す。捜査資料のコピー、関口の手帳の写し、デジタルデータ。安西は若いが、頭が切れる。何より、神崎に目をつけられていない」
「安西さんは受けてくれるでしょうか」
「あいつは正義感の塊だ。ただ、表には出せない。安西には安西の戦い方がある。デジタルの海で泳がせたら、神崎でも追いつけない」
冴は黙って頷いた。嶋田のやり方を信じていた。嶋田が信頼を置く相手なら、冴も信じる。七年の積み重ねがそこにある。
「もう一つ」
嶋田がポケットから折り畳んだ紙を出した。
「異動前に片付ける。これを見てくれ」
紙を広げた。嶋田が独自に入手したコピーだった。内部文書。表紙に「鏡花計画に関する対応について」と記されていた。日付は十五年前。
「どこでこれを」
「捜査一課の地下書庫。封印文書の棚だ。俺みたいな古株じゃないとどこにあるか分からない」
冴は文書を手に取った。紙が黄ばんでいる。印字がかすれている箇所もあった。
「鏡花計画の終了に伴う関係者への対応措置。被験者二名の処遇について」
文字が冴の目に焼きつく。公式文書。つまり鏡花計画は政府が認知し、終了手続きも組織的に行われた。闇の中の実験ではなく、予算と人員と決裁印のある国家プロジェクトだった。
冴の目が文書を走った。被験者01と被験者02。01については「社会復帰プログラムに移行。記憶処理済み。経過観察は御堂孝之が担当」。02については「継続管理。特命対策室預かり」。
「被験者01が私だ」
「だろうな。記憶処理。お前さんの五歳から七歳の記憶がないのは、消されたからだ」
冴は文書を握りしめた。指の関節が白くなった。
「被験者02。特命対策室預かり。つまり神崎が管理している」
「もう一人の能力者は、十五年前から神崎の手の中にいる」
桜の花びらが風に舞い上がった。公園のベンチで、二人は沈黙した。嶋田の大きな手が、膝の上で拳を作っていた。
嶋田が立ち上がった。
「朽木先生。俺は来月から庶務課だが、耳と足は止まらない。安西を通じて情報は流す。異動されたぐらいで止まると思ったら、神崎を甘く見てると言ってやれ」
冴は嶋田の背中を見た。大きな背中。少し猫背で、スーツの肩が下がっている。三十年間、現場を歩き続けた男の背中だった。
「嶋田さん」
「何だ」
「ありがとうございます」
嶋田は振り返らなかった。片手を上げて、公園を出ていった。その足取りには迷いがなかった。
嶋田の妻がどう思うか。高校生の娘がどう思うか。家族に迷惑をかけることは分かっている。それでも嶋田は止まらない。関口の最期を知っている人間として。冴の能力を「人間の苦しみ」として理解している人間として。
冴はベンチに座ったまま、封印文書のコピーを読み返した。被験者01。記憶処理済み。冴の人生の空白が、一枚の文書で説明されていた。
だが被験者02の行方は、文書には書かれていなかった。「特命対策室預かり」の一行だけ。その後の十五年間、もう一人の能力者がどこで何をしていたのか。何をさせられていたのか。
風が吹いた。公園の桜が一斉に花びらを散らした。薄桃色の雨のように降り注ぐ花弁の中で、冴はベンチに座り続けていた。
嶋田がいなくなる。現場から外される。だが嶋田は止まらないと言った。安西がいる。薫がいる。冴は一人ではない。
だが同時に、冴は分かっていた。嶋田を左遷させたのは、冴が事件を追ったからだ。嶋田を巻き込んだのは冴だ。その事実が、桜の花びらより軽く、鉛より重く、冴の肩にのしかかっていた。
散り残った花びらが膝に落ちた。冴はそれを手のひらに受けた。薄桃色の、小さな花弁。生きているのか死んでいるのか分からない、境界のものだった。




