穏やかな檻
ホテルのラウンジは、午後の陽光で金色に染まっていた。
キャンパスから車で十分。神崎が選んだのは、大学近くの高層ホテルの最上階だった。ジャズピアノの音が低く流れている。革張りの椅子に座ると、窓の向こうに東京のビル群が広がっていた。
「何にする。コーヒーでいいかな」
神崎が給仕に声をかけた。冴が答える前に、二人分のコーヒーが注文されていた。
「朽木先生。先に言っておくと、私は君の敵ではない」
神崎は微笑みながら言った。その微笑みに温度がない。完璧に整えられた表情だった。冴は解剖台の上で何百もの顔を見てきた。死者の顔には表情の残骸がある。恐怖、驚愕、安堵、諦め。だがこの男の顔には何の残骸もない。表情そのものが不在だった。生者の中で、最も死者に近い顔をしているのがこの男だった。
「敵ではないとおっしゃるなら、何でしょう」
「協力者だ。いや、協力者になりたいと思っている」
コーヒーが運ばれてきた。白い磁器のカップ。薄く立ち上る湯気。冴はカップに手をつけなかった。
「朽木先生の特殊な才能については、以前から注目していた」
「才能」
「そう。才能だ。死者の遺体から、通常の法医学的手法では得られない情報を読み取る力。その才能は、捜査に計り知れない貢献をしてきた」
冴の胸の奥が冷えた。神崎は「記憶を食べる」とは言わない。「通常では得られない情報を読み取る」。慎重な言い回し。冴が自分の能力をどこまで認めるか、試している。
「私は優秀な法医学者として評価をいただいているだけです」
「謙遜だね。だが私は知っている。君が遺体に素手で触れたとき、何かが起きることを」
冴の指先が微かに震えた。テーブルの下で拳を握る。
「知っている、とは」
「長年の観察だよ。君が関わった未解決事件の解決率は異常に高い。法医学的所見だけでは説明できない推理がいくつもある。それは才能と呼ぶしかない」
神崎はコーヒーを一口飲んだ。優雅な所作だった。
神崎がカップをソーサーに置いた。金属のスプーンが磁器に触れる澄んだ音。その音を合図のように、神崎の声のトーンが変わった。
「特命捜査対策室への正式な協力者登録を提案したい。非公式の協力ではなく、正式な。契約に基づいた協力関係だ。報酬も用意する」
「報酬」
「年俸制で。大学の給与に上乗せする形が望ましいと思うが、別途でも構わない。君の才能には、それだけの価値がある」
冴は黙って神崎の言葉を聞いていた。窓から差し込む午後の光が、神崎の銀縁眼鏡に反射して白い線を引いている。その光が一瞬だけ冴の目を刺した。
冴はコーヒーカップを手に取った。口をつけずに、器を見つめた。磁器の表面に自分の顔がぼんやりと映っている。
これは取引だ。冴の能力を神崎の管理下に置く。正式な協力者。つまり、正式な駒。
「神崎室長。私の仕事は法医学教室にあります。特命対策室の業務に携わる余裕はありません」
「余裕の問題ではないよ。必要な時だけ協力してくれればいい。月に一度あるかないか。それだけで、多くの人を救える」
多くの人を救える。そう言いながら、冴を檻に入れようとしている。冴にはそれが見えた。
「能力者」
神崎が不意にその言葉を使った。躊躇いなく。
「君は能力者だ。朽木先生。その能力を正しく使えば、多くの未解決事件を解決できる。だが正しく使わなければ、能力は君自身を蝕む。そうだろう?」
冴の心臓が一拍跳ねた。ラウンジの空気が急に薄くなったような気がした。「能力者」。関口の手帳にあった言葉。園部の記憶の中の囁き声の主が持つもの。そしてそれを、神崎が平然と口にしている。この男はすべてを知っている。最初から。
「能力者という言葉は、どういう意味でしょう」
「文字通りだよ。特殊な知覚能力を持つ人間。世の中には稀に、通常の五感を超えた知覚を持つ者がいる。君はその一人だ」
神崎は冴の目を真っ直ぐ見ていた。穏やかな目。だがその奥に、冷たい計算が光っている。
「私の提案を考えてみてほしい。返事は急がない。ただ、一つだけ忠告させてくれ」
神崎がカップをソーサーに戻した。陶器の触れる音が、ピアノの音に紛れた。
「君が最近、独自に過去の事件を調べていることは把握している。その行為は、君自身を危険に晒す。私の知らないところで動かれると、守りたくても守れない」
守る。冴は喉の奥で笑った。守るという言葉の裏に、監視がある。管理がある。
冴は神崎の顔をじっと見つめた。穏やかな表情の裏側を読もうとした。だがこの男の顔は、死者の記憶を食べても読み解けないような深さを持っていた。
「ご忠告、ありがとうございます」
「考えておいてくれ。いつでも連絡を」
神崎は名刺を差し出した。冴は受け取った。名刺の角が指に刺さった。上質な紙。エンボス加工された文字。「警視庁特命捜査対策室 室長 神崎怜司」。直通の電話番号が記されている。
神崎が立ち上がり、柔らかな笑みを残して去った。革靴の足音はほとんど聞こえなかった。まるで影が歩いていくようだった。
冴は一人残された。ラウンジのジャズが続いている。窓の外のビル群が夕陽に染まり始めていた。
ナプキンを手に取ろうとして、冴は気づいた。
神崎が座っていた席のナプキンの下に、小さなメモが残されていた。白い紙に、万年筆の細い字。
「御堂孝之に聞いてごらん。鏡花のことを」
冴はメモを見つめた。手が震えていた。
これは何だ。罠か。手がかりか。神崎が意図的に残したのか、あるいは第三者が仕込んだのか。
だが一つだけ確かなことがある。神崎は御堂の名前を知っている。そして冴と御堂の関係を知っている。
冴はメモをポケットに入れた。ナプキンを元に戻し、テーブルの上を確認した。他に何も残されていない。
コーヒーは冷めていた。一口も飲まなかった。
神崎の提案。正式な協力者。つまり冴の能力を組織の枠の中に収める。使いやすくする。そして、冴が独自に動くことを封じる。穏やかな檻。金の錠前。
檻の扉は、まだ開いている。だがいつ閉じるか分からない。
冴は立ち上がり、ホテルのロビーに向かった。エレベーターの鏡に映る自分の顔が、疲れ切っていた。だが目だけは光っていた。
御堂孝之。恩師の名前。神崎が残したメモは罠かもしれない。だが罠であっても、その先に真実がある可能性を冴は捨てられない。
外に出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。ポケットの中のメモが、小さな重さで冴を引っ張っている。
帰りの電車の中で、冴はスマートフォンを取り出した。嶋田にメッセージを送る。
「神崎と会った。詳しくは明日。一つだけ。神崎は『能力者』という言葉を使った」
返信は三十秒で来た。
「檻に入るなと言っただろ。入ったのか」
「入口で引き返しました」
「嘘つけ。明日朝イチで来い」
冴はスマートフォンをポケットに戻した。電車が揺れる。窓の外を夕焼けが流れていく。冴はその赤い光を見ながら、御堂の顔を思い浮かべていた。穏やかな恩師の顔。その顔の裏に、何が隠されているのか。




