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死者の記憶を食べる検屍官、自分を殺した犯人を追ううちに七つの未解決事件の真相に辿り着く  作者: ぽんぽこライフ


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神崎の影

 朝の法医学教室に、黒田教授の低い声が響いた。


「朽木くん。少し話がある」


 冴はパラフィンブロックの整理をしていた手を止めた。黒田が教授室ではなく教室に直接来るのは珍しい。丸い眼鏡の奥の目が、いつもより鋭かった。


「何でしょう」


「神崎室長から問い合わせがあった」


 冴の背筋に冷たいものが走った。


「特命捜査対策室の神崎室長が、教室の標本保管台帳の閲覧履歴について問い合わせてきた。具体的には、園部真司の組織標本に関する記録だ」


「閲覧履歴」


「誰がいつ何の標本にアクセスしたか。君が最近、園部の標本を引き出したことは台帳に記録されている」


 冴は唇を引き結んだ。神崎は冴の動きを追っている。園部の標本にアクセスしたことが筒抜けだった。


「黒田教授。私は自分が担当した検体の再確認をしただけです」


「分かっている。だが神崎室長は単なる問い合わせではなかった。君の最近の行動について、懸念を示していた」


「懸念とは」


「復帰したばかりの身体で、過去の事件を独自に調べ回っているのではないか、と。休職を改めて勧告すべきではないかという趣旨だ」


 冴は黒田の目を見た。黒田は冴の能力を知らない。だが冴の異常な洞察力には以前から疑念を持っている。


「私は法医学者として正当な業務を行っています」


「そう思いたい。だが朽木くん、私が心配しているのは組織からの圧力ではなく、君自身の状態だ。刺された傷はまだ完治していないだろう」


 黒田の声には、怒りではなく心配が滲んでいた。冴はその温度に少しだけ救われた。だが今は救われている場合ではない。


「二週間だけ待ってください。それまでに結論を出します」


 黒田は長い間冴を見つめた。厚い眼鏡の奥で、何かを計算しているような目だった。冴の言葉の裏にあるものを読もうとしている。


「朽木くん。君がこの教室に来て八年になる。その間、君の仕事ぶりに文句をつけたことはない。だが最近の君は、何かに追い立てられている」


「教授」


「二週間だ。それ以上は大学として対応せざるを得ない。そして、身体を壊すようなことはするな」


 黒田は背を向けた。足音が廊下に消えていくまで、冴は動けなかった。



  ◇



 昼過ぎ、安西からの暗号化メッセージが届いた。


 冴は安西が教えてくれた復号手順に従ってメッセージを開いた。安西は神崎の監視を警戒し、一週間前から通常の連絡手段を避けていた。


「神崎室長が第三、第四の事件ファイルの閲覧ログに名前を残しています。閲覧日は三日前。朽木先生が園部の標本にアクセスした翌日です」


 冴は画面を見つめた。研究室の蛍光灯が微かに瞬いた。三日前。冴が標本に触れた翌日に、神崎が園部と関口の事件ファイルを閲覧している。冴の行動に即座に反応している。


 タイムラグは一日。つまり冴の行動が何らかの経路で神崎に報告されている。標本保管台帳の閲覧記録か、あるいは教室内に協力者がいるのか。冴は周囲を見回した。法医学教室の院生たちが各自の作業をしている。誰かが見ている。その可能性を排除できない。


 もう一つ、安西のメッセージが続いていた。


「嶋田さんから聞いた関口の手帳の件。関口の事件の再捜査申請を出そうとしましたが、上層部から却下されました。理由は『捜査本部解散済みの案件について新証拠が不十分』。却下の決裁者は神崎室長の署名ではありませんが、決裁ルートに特命対策室が含まれています」


 冴はスマートフォンを握りしめた。画面のガラスに自分の指紋が残る。


 再捜査が潰された。関口の手帳という物証があるにもかかわらず。神崎が直接手を下していなくても、その影響力が見えない壁となって冴たちの前に立ちはだかっている。正面から突破できない壁。だが壁には必ず継ぎ目がある。


 冴は安西のメッセージを削除し、嶋田に電話した。


「再捜査、潰されました」


「ああ。安西から聞いた。上からだ」


「嶋田さん。神崎が私たちの動きを完全に把握しています。標本へのアクセスも、再捜査申請も」


「だろうな」


 嶋田の声にいつもの荒さがなかった。抑えた怒りが、かえって重い。


「あの男は警察内部の情報網を握っている。特命対策室は表向き広域捜査の調整部署だが、実態は違う」


「実態は」


「『特殊な捜査手法の運用』。つまり、表に出せない捜査をやる部署だ。証拠の管理、情報の制御。神崎はその中心にいる」


 冴は窓の外を見た。キャンパスの銀杏並木を学生たちが歩いている。平穏な日常。その日常の裏側で、冴たちは見えない壁にぶつかり続けている。


「嶋田さん、園部の事件だけでなく、関口の事件も神崎が関わっている可能性がある。関口は神崎を調べていた。手帳に『対象人物K、特命対策室に接触』とあった」


「Kが神崎だとすると、関口は神崎を追っていて殺された」


「そして神崎は今、私たちが同じことをしていると気づいている」


 電話を切った直後、廊下に足音が聞こえた。冴は反射的に身構えた。


 法医学教室のドアが開いた。


 神崎怜司が立っていた。


 銀縁眼鏡に端正な顔。濃紺のスーツに淡いグレーのネクタイ。穏やかな微笑みを浮かべている。その穏やかさが、冴の肌を粟立たせた。


「朽木先生、少しお時間よろしいかな」


 冴は立ち上がった。心拍数が上がる。だが顔には出さない。死者の前で培った無表情が、今は盾になる。


「神崎室長。お約束はいただいていませんが」


「突然で申し訳ない。近くに来たものでね。少し、お話ししたいことがある」


 神崎の目が教室を一周した。デスクの上の書類、棚の標本、モニターの画面。一瞬の視線移動だったが、訓練された目だと冴は感じた。手帳のコピーは引き出しの中。園部の標本は保管庫に戻してある。表面上は何も見えないはずだ。


「教授室をお借りしてもいいかな。いや、外の方がいいだろう。少し歩こう」


 提案の形を取った命令だった。冴は白衣を脱ぎ、神崎の後に続いた。廊下を歩きながら、背中に嶋田の言葉が響いた。


 檻に入るな。


 だが冴は歩き続けた。神崎が何を知り、何を求めているのか。それを見極めなければならない。


 キャンパスの春の陽射しが眩しかった。桜の花びらが風に舞い、二人の間を通り過ぎていく。穏やかな景色の中を歩く二人の姿は、傍目には教授と学生のようにも見えただろう。


 だが冴の背中は汗ばんでいた。神崎の足音は規則正しく、一切の乱れがない。この男は何を知っているのか。何を仕掛けてくるのか。


 二人の影が地面に伸びていた。神崎の影は冴より長かった。

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