能力者という言葉
関口義人の手帳を、冴は何度も読み返していた。
夜の研究室。デスクランプの光が手帳の黄ばんだページを照らす。関口の几帳面な字が、冴に語りかけてくる。四年前に消えた男の声。
「能力者は二人いる。一人は朽木冴」
冴はその行に指を置いた。関口は冴の名前に辿り着いていた。だが「もう一人」については何も書かれていない。名前を知る前に殺されたのか。それとも書けない理由があったのか。
手帳を遡る。ページの端が少し反り返っている。何度も開かれた形跡のあるページと、ほとんど触れられていないページがある。関口が重要と考えた箇所は紙が柔らかくなっていた。
関口が探偵として受けた最後の依頼。依頼人は符号「H」。調査対象は「東栄製薬と政府系研究プロジェクトの関係」。
H。誰だ。依頼人の名前を隠す必要があった。つまりこの人物の身元が判明すると危険がある。
関口の調査メモは几帳面だった。訪問先、面会者、取得した情報が日付順に記されている。そのメモの中に、園部真司の名前があった。
「R(園部)と接触。製薬会社の内部データの持ち出しを計画中。園部は退職を装い社外に出る。データの受け渡しは未定」
日付は園部が死ぬ五週間前だった。
冴は椅子の背にもたれた。天井の染みを数える癖が出る。考えがまとまらないときの癖だ。
関口と園部は繋がっていた。園部が殺される前に、関口は園部と会っていた。二人とも鏡花プロジェクトの存在に触れ、二人とも殺された。
そして関口が死んだのは園部の約八ヶ月後。素数月の間隔。この法則にも当てはまる。犯人の行動パターンが一貫している。計画的でありながら、その間隔には何か生理的な周期が関与しているのではないか。
手帳のさらに前のページ。
「Rの証言:被験者は子供だった。五歳から七歳。適性検査で選ばれた。実験は三年間。第一期から第三期。第三期で一人の被験者が制御不能に」
冴の呼吸が浅くなった。五歳から七歳。冴の記憶が空白になっている年齢と一致する。
さらにもう一つの記述が目に入った。
「園部の記憶を再度辿る必要あり」
冴は自分に言い聞かせた。園部の記憶にまだ見落としているものがある。前回と前々回で読み取ったのは、USBの受け渡しと溺死の瞬間。だがその間に、何かがあった。記憶の断片と断片の間の暗闇に、まだ声が沈んでいる。
デスクの上のコーヒーはとっくに冷めていた。冴はそれを一口飲んだ。苦みが薄れて酸味だけが残っている。
冴は目を閉じ、園部の記憶に潜った。標本に触れずとも、一度食べた記憶はフラッシュバックとして再生できる。ただし精度は落ちる。夢と記憶の境界が曖昧になる。
水底。暗い水。
その手前。園部がUSBメモリを渡す場面。相手の手首にシルバーのブレスレット。
巻き戻す。もっと前。記憶の時間軸を逆行する。園部が河川敷に向かう道。夜風が生温い。星空が広い。道端の雑草が膝まで伸びている。
園部の唇が動いた。誰かに向かって話している。だが相手の姿は見えない。電話か。
「あなたも見えるの?」
園部の声ではなかった。電話の相手の声だ。女性。若い。どこか怯えたような。
「あなたも見えるの? 死んだ人の、最後の記憶が」
冴の目が開いた。鼻血が一滴、手帳のページに落ちた。
慌ててティッシュで押さえる。手帳を汚してしまった。だがそれ以上のことが脳を占めていた。
「あなたも見えるの?」
冴の身体が震えた。その声のトーンには、孤独の色が滲んでいた。長い間、誰にも理解されなかった人間の声。自分と同じものを持つ誰かを、必死で探している声。
その声は園部に向けられたものだった。つまり電話の相手は、園部に記憶を食べる能力があるかどうかを確認していた。園部にその能力はない。彼は研究者だ。データとして能力を理解していても、自分で記憶を食べることはできない。だが声の主は違った。声の主は能力者だった。
もう一人の能力者。
関口の手帳の「能力者は二人いる」。園部の記憶の中の囁き。点と点が繋がっていく。
冴はスマートフォンを取り上げ、嶋田に電話した。
「園部の記憶を再確認しました。園部は死の直前、電話で誰かと話していた。相手は女性。その女性は園部に『あなたも見えるの? 死んだ人の最後の記憶が』と聞いていた」
嶋田は数秒沈黙した。
「つまり、その女は自分に能力があることを知っていて、園部にも同じものがあるか確認していたのか」
「園部に能力はありません。ただ、園部は鏡花プロジェクトの研究員として被験者のデータを扱っていた。能力のメカニズムを知っていた可能性がある」
「だから殺された」
「知りすぎた研究員。園部はデータを外部に持ち出そうとしていた。それを阻止するために殺された。あるいは――」
冴は言葉を切った。もう一つの可能性が浮かんだ。
「データを持ち出す園部を利用しようとした人間がいた。データが外に出れば困る人間と、データが欲しい人間。園部はその二つの力の間で潰された」
嶋田が唸った。
「関口の手帳にあった名刺の裏。『鏡花』という一語。あれが関口の最後の手がかりだったんだ」
「関口さんと園部は、同じものを追っていた。同じ真実に近づき、同じ相手に殺された。そして四年後、私が同じ道を歩いている」
「だが朽木先生は生きている」
「殺す気がなかったから」
沈黙が電話線を通じて二人の間に横たわった。殺す気がなかった。犯人は冴を生かすために刺した。七枚の写真を残し、SMSで招待した。冴に真実を追わせるために。
「関口の元妻のところにも行きたい。関口が死ぬ前に何か話していたかもしれない」
「手配する。明日の午前中でいいか」
「お願いします」
「嶋田さん。『能力者は二人いる』。これが全ての鍵です」
「もう一人の能力者を見つけなければならない」
「いいえ。もう一人の方から、私に近づいてきている」
夜が深まっていく。研究室の窓に自分の顔が映る。その向こうに、もう一人の顔が見える気がした。知らない顔。だがどこか似ている。同じ実験を受け、同じ能力を持ち、同じ記憶の重さに潰されかけている、もう一人の自分。
猫の夜が足元に擦り寄ってきた。冴は腰を屈めて抱き上げた。小さな身体の温もりが、冴をここに留めている。
「能力者」という言葉が脳裏で反響する。関口はその言葉を書き留めた直後に殺された。園部はその能力の秘密を持ち出そうとして殺された。能力者という言葉は、死を呼ぶ言葉になっていた。
それでも冴は、その言葉の先を追わなければならない。もう一人の能力者が何を求めているのか。なぜ七人を殺し、なぜ冴を生かしたのか。そして自分が何者なのかを知るために。
夜の指先で手帳の最後のページに触れた。関口の手帳に挟まれていた名刺の裏の「鏡花」という文字。その二文字が、冴の夜を深く染めていた。




