薫の再訪
桐生薫は東都大学の正門をくぐりながら、自分の心拍数が上がっていることに気づいた。
三年ぶりの法医学教室。あの頃と同じ銀杏並木。春の陽射しが路面に木漏れ日を落としている。学生たちが笑いながらすれ違う。何も変わっていないのに、薫の中では何もかもが変わっていた。
受付で来客票に名前を書く。ペン先が一瞬止まった。訪問先の欄に「朽木冴」と書く。三年前まで毎日のように書いていた名前。インクが紙に染みる間に、過去の記憶が押し寄せる。
薫は息を整え、階段を上がった。
法医学教室の扉を開けると、ホルマリンの匂いが鼻を突いた。薫にとっては馴染みの匂いだ。別の大学病院で同じ匂いの中にいる。だがここのホルマリンには、冴の気配が混じっている気がした。試薬の並べ方、机上の書類の積み方、窓の開け方。非科学的な感覚だと分かっている。それでも、この部屋は冴そのものだった。
「桐生さん」
冴が奥のデスクから顔を上げた。白衣の襟元がわずかに乱れている。寝不足の目。三年前より少し痩せた頬。
「お久しぶりです、冴」
薫は笑った。努めて自然に。冴の目が一瞬だけ揺れたのを見逃さなかった。その揺れが何を意味するのか、薫は三年かけて分かるようになった。驚き。わずかな安堵。そして、押し込めた何か。
「わざわざ来なくてもメールでよかった」
「園部真司の再鑑定について、直接お話ししたいことがあったので」
冴が椅子を引いた。白衣のポケットから手帳を出す。その仕草の一つひとつが、三年前と変わらない。薫は自分の感情を棚に上げた。今は法医学者として来ている。
◇
学食は昼時を過ぎて空いていた。油と出汁の匂いが残っている。窓際の席に向かい合って座る。テーブルの上にはまだ前の客が残した水滴がある。薫はカレーを頼み、冴はコーヒーだけだった。
「食べないの」
「さっき食べた」
「嘘。あなたが昼を食べるのは十五時過ぎでしょう」
冴が何か言いかけて、口を閉じた。三年離れていても、薫には冴の嘘が分かる。
「園部真司の件です」
薫がトレイの脇にファイルを置いた。
「前回のメールで検屍所見を送りましたが、改めて原本を確認したくて組織標本を取り寄せようとしました」
「取り寄せようとした」
「ええ。一部が紛失扱いになっていました」
冴の箸――ではなく、コーヒーカップを持つ手が止まった。
「紛失」
「肺組織のパラフィンブロック三検体のうち、一検体が所在不明です。保管台帳には『移管手続き中』とだけ記載されていて、移管先の記録がない」
「いつからの不明ですか」
「少なくとも二年前から。保管台帳の最終確認日が二年前です」
冴はコーヒーカップをソーサーに戻した。陶器がかすかに鳴った。二年前。事件から一年後。冴が園部の記憶を食べた後のタイミング。誰かがわざわざ園部の標本を持ち出した。偶然の紛失ではない。証拠を消そうとした人間がいる。
「私が取り寄せ申請を出したのは三日前です。その翌日、保管施設から電話がありました。『該当検体は現在確認中につき、お渡しに時間がかかる』と。でも台帳では二年前から不明なのに、なぜ三日で対応できるのか」
「誰かが私たちの動きを追っている」
「そう思います」
薫はカレーを一口食べた。味が分からない。冴の目を見た。あの目だ。何かを隠している目。三年前と同じ。
だが今の薫は三年前の薫ではない。
「冴。再鑑定を自分でやります」
薫はスプーンを置いた。
「残り二検体で十分です。肺水の塩化物イオン組成を調べたい。荒川の水質データと照合すれば、園部が本当にあの河川で溺れたのか検証できます。淡水溺死なら河川水の組成と一致するはずですが、もし一致しなければ、園部は荒川で溺れたのではない可能性がある」
薫は自分のファイルを開き、メモを見せた。几帳面な文字が整然と並んでいる。既にいくつかの仮説と検証手順がまとめられていた。薫は来る前から覚悟を決めていたのだ。
「桐生さん」
「薫でいい」
冴が言葉を探すように視線を泳がせた。薫は待った。学食のざわめきが遠い。
「危険かもしれない。標本を追っている人間がいる」
「法医学者として、正しい死因を明らかにすることが私の仕事です。それが危険かどうかは別の問題」
冴は黙った。薫のその姿勢を知っている。芯の強さ。三年前、冴が隠し事を続けたとき、薫は離れることを選んだ。だがそれは弱さからではなかった。
「ありがとう」
冴の声が低く、かすれていた。三年前には聞けなかった言葉。薫は頷いた。それだけでよかった。カレーの残りを食べた。味が戻ってきた。少しだけ辛かった。
「それと、もう一つ」
薫は立ち上がりながら言った。
「刺されたこと。ちゃんと治ってるの」
「治っている」
「見せて」
「ここでは無理だ」
「じゃあ今度」
冴が何か言う前に、薫はトレイを返却口に運んだ。背中で冴の視線を感じた。
◇
薫が帰った後、冴は研究室に戻った。
窓の外で銀杏並木が風に揺れている。薫の背中が正門を出ていくのが見えた。まっすぐな歩き方。三年前と変わらない。
スマートフォンが鳴った。凛からだった。
「お姉ちゃん、最近会いに来てる女の人がいるって聞いたんだけど」
冴は眉をひそめた。
「誰から聞いた」
「教室の院生さん。この前お弁当持って行ったとき、話してくれた。綺麗な人が来てたって。もしかして薫さん?」
「……仕事の話で来ただけだ」
「仕事の話で、学食に二人で行くんだ」
「凛」
「怒ってないよ。ただ、お姉ちゃんが誰かと一緒にいるの、久しぶりだなって思って。最近の仕事、大丈夫? なんか声が疲れてる」
「気のせいだ」
「またそうやって。お姉ちゃんはいつも自分のことは話さないんだから」
凛の声は明るかった。だがその明るさの奥に、姉を心配する音が混じっている。冴にはそれが聞こえた。凛はいつもそうだ。笑顔の裏で姉の異変を嗅ぎ取る嗅覚を持っている。
「大丈夫だ」
「その言葉、信じたことないけどね」
凛が笑って電話を切った。冴はスマートフォンをデスクに置いた。
園部の標本が一検体紛失している。誰かが先に持ち出していた。標本から記憶を食べられることを知っている人間。それは極めて限られた人物しかいない。冴自身か、冴の能力を知っている人間か。
あるいは、もう一人の能力者か。
冴は窓を閉めた。春風が途切れ、研究室が静寂に包まれる。デスクの隅に薫が置いていったファイルの一部がある。薫のメモ用紙。万年筆の青いインクが、三年前と同じ癖のある筆跡で並んでいた。
薫が再鑑定を始めれば、新たな事実が浮かび上がるだろう。だがそれは同時に、薫を危険に晒すことを意味する。標本を追う人間は、薫の動きも見ているはずだ。
凛。嶋田。安西。そして今日、薫。
守りたい人が増えるたびに、冴の手は届かなくなっていく。記憶を食べることはできても、生きている人間を守る方法を、冴は知らない。




