元刑事の遺した足跡
警視庁の廊下は、いつも同じ匂いがする。コーヒーと古い紙と、微かに汗。
嶋田耕一は捜査一課のデスクに座り、第四の事件のファイルを開いていた。関口義人。元捜査二課の刑事、退職後は私立探偵。自宅アパートで刺殺体として発見された。四年前。
関口を嶋田は知っていた。同期ではないが、二課で何度か合同捜査をした。小柄で物静かな男だった。目だけが鋭い。酒は飲まない。煙草も吸わない。ただ事件だけを追い続ける、乾いた男だった。退職後も捜査の勘を捨てきれず、探偵になった。ありがちな転身だが、関口の場合は少し違った。金にならない案件ばかり引き受けていた。行方不明者の捜索。冤罪の再検証。正義という言葉を口にしない種類の正義感が、関口を動かしていた。
「嶋田さん」
安西が隣のデスクから顔を上げた。
「関口義人の捜査資料、データベースから引っ張りました。事件は未解決のまま捜査本部が解散しています」
「知ってる。俺が異動になった直後に解散した」
安西がモニターを向けた。
「刺し傷のパターンなんですが」
嶋田は画面を見て、喉の奥で唸った。
「朽木先生のと同じだ」
「はい。単一の刃物による腹部刺創。深さは約七センチ。角度は下から上へ斜め三十度。しかも致命傷を避けるように内臓の隙間を縫っています」
「殺す気がなかった」
「少なくとも即死させる意図はなかったようです。ただ関口さんの場合は出血量が多く、発見が遅れて死亡しています」
嶋田は拳を握った。関口は一人暮らしだった。元妻とは三年前に離婚している。発見されるまで二日。助けを呼べなかった。
「朽木先生の傷と同じ角度、同じ深さ、同じ意図。同一犯の可能性が高い」
安西の声は淡々としていたが、目が光っていた。この若い刑事は事件の本質に近づくほど集中力が増す。冴とは違う種類の鋭さだが、捜査に対する執念は同等だった。
「もう一つ。関口さんの事件当時の周辺防犯カメラ映像を請求しましたが、保管期限切れで消去済みです。ただ、近隣のコンビニの取引ログは残っていました」
「何か出たか」
「事件推定時刻の前後に、コンビニで特定の商品を買った人物がいます。ゴム手袋と消毒用アルコール。支払いは現金」
「証拠隠滅の準備か」
「可能性はあります。ただ購入者の特定には至っていません」
嶋田はデスクの引き出しから関口の写真を取り出した。退職時の記念写真。小柄な男が照れくさそうに笑っている。
「関口、お前は何を見つけたんだ」
◇
午後、嶋田は冴を誘って関口の事務所跡に向かった。新宿三丁目の雑居ビル。四階建ての三階、エレベーターのない建物だった。階段を上がると、廊下の蛍光灯が一本切れている。
「関口探偵事務所」という看板はとうに外されていた。ドアには新しいテナントの名前が貼られている。不動産仲介の零細企業。
「管理会社に話をつけてある」
嶋田がポケットから鍵を出した。冴は眉を上げた。
「元持ち主のスペアだ。関口の元妻が保管していた。遺品整理のときに返し忘れたらしい」
「それは公式な捜査ですか」
「非公式だ。文句あるか」
「ありません」
嶋田が鍵を差し込む指先に、微かな震えがあった。関口の遺品に触れることへの感傷を隠そうとしている。冴にはそれが分かった。死者との距離の取り方は、冴より嶋田の方がずっと人間的だ。
ドアを開けた。
中は別の会社のオフィスになっていた。小さなデスクが二つ、パソコンが一台。壁には物件のチラシが貼られている。嶋田は真っ直ぐ窓際に向かい、壁を叩き始めた。
「何をしてるんですか」
「関口は几帳面な男だった。重要な書類は必ず物理的に隠す。デジタルは信用しない世代だからな」
壁を叩く音が変わった。嶋田の手が止まる。窓際の壁板の一枚が、わずかに浮いていた。
嶋田がポケットナイフで慎重に板を外す。壁の裏に十センチほどの空間があった。
「あった」
埃を被った封筒が一つ。中にはA5サイズの手帳。表紙は黒革で、関口のイニシャルが刻印されていた。
冴が手袋をはめて手帳を受け取った。ページを開く。
関口の几帳面な字が並んでいた。日付、場所、人名、メモ。探偵になってからの調査記録。依頼人の名前は伏せられ、アルファベットの符号で記されている。
嶋田が隣から覗き込む。
「最後のページを見てくれ」
冴は最後のページを開いた。
関口の字が乱れていた。日付は亡くなる三日前。
「対象人物K、特命対策室に接触。鏡花という名称。政府系研究プロジェクトか。被験者の存在を示唆する文書を入手。内部協力者からの情報:能力者は二人いる。一人は朽木冴」
冴の指先が凍りついた。
自分の名前だ。四年前に殺された元刑事が、自分の名前を手帳に書いていた。
「嶋田さん」
「ああ」
「関口さんは、私のことを調べていた」
嶋田は黙って頷いた。その目は冴に向けられていたが、冴のことだけを見ているのではなかった。四年前に殺された同僚を見ていた。
「関口は何かを掴んでいた。鏡花プロジェクト。能力者は二人。一人は朽木冴」
「もう一人は」
「書かれていない。だがこの直後に殺されている」
手帳を閉じた。埃が舞う。嶋田が窓を開け、春の空気が事務所に流れ込んだ。排気ガスと花の匂いが混じっている。
「対象人物K、だと」
「Kは神崎の頭文字でしょう」
「断定はできんが、特命対策室との接点がある人物。可能性は高い」
冴は手帳をファイルバッグに収めた。関口義人。この男は冴の存在に辿り着いていた。能力者が二人いるという事実に。そしてその事実に近づきすぎて殺された。
冴を刺した犯人と同じ手口で。
ただし関口には冴のような幸運はなかった。誰も見つけてくれなかった。二日間、血を流しながら一人で死んでいった。
嶋田が窓の外を見つめている。顎が引き締まっていた。
「関口。お前が追ってたもの、俺が拾う」
呟くような声だった。嶋田が冴に向き直る。
「朽木先生。関口の手帳に書かれていた『もう一人』。これが鍵だ」
「ええ。犯人が私と同じ能力者だとしたら、それがもう一人の被験者」
事務所を出るとき、冴はもう一度隠しスペースを確認した。手帳以外に何かないか。壁の奥に手を入れる。
指先に何かが触れた。小さな紙片。名刺だった。埃で黄ばんでいる。裏返すと、関口の字で一言だけ書かれていた。
「鏡花」
冴はその名刺をポケットに入れた。
階段を降りながら、冴は考えた。関口は警察官としての勘と探偵としての執念で、鏡花プロジェクトに辿り着いた。そして冴の名前を手帳に書いた。能力者は二人いる。その情報源は誰だったのか。「内部協力者」と関口は書いていた。特命対策室の内部に、神崎に逆らう人間がいた。
だがその協力者は、関口を守ることができなかった。
春の風が頬を撫でた。雑居ビルの前の路地は狭く、頭上に電線が絡み合っている。嶋田が黙って歩いている。その背中は普段より少し小さく見えた。
四年前に殺された元刑事の足跡が、沈黙を破って冴の前に現れた。死者の声は時を超える。冴の能力が届かない場所にも、死者は痕跡を遺していた。




