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死者の記憶を食べる検屍官、自分を殺した犯人を追ううちに七つの未解決事件の真相に辿り着く  作者: ぽんぽこライフ


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記憶の水面

 蛍光灯の青白い光が、標本室の棚を照らしている。


 深夜零時を回った法医学教室。冴は白衣の袖を捲り上げ、冷蔵保管庫の前に立っていた。園部真司の組織標本。三年前に切り出した肺組織と脳幹の薄切片が、パラフィンブロックの中に眠っている。


 前回、美咲の標本から記憶を食べ直したとき、鮮明な映像が蘇った。組織標本からの読み取りは遺体本体より精度が落ちる。それでも断片は得られる。


 冴は手袋を外した。素手の指先が空気に触れ、標本室の冷気を感じる。


 パラフィンブロックに指を当てた。


 世界が沈む。



  ◇



 暗い。


 水の重さが全身を包んでいる。冷たい。肺が痛い。口を開けてはいけないと分かっているのに、身体が勝手に水を吸い込もうとする。


 園部の恐怖が冴の中に流れ込んだ。


 だが冴は恐怖の奥に意識を向けた。三年前に食べたとき、水に沈む恐怖が強すぎて、その前の記憶に辿り着けなかった。今回はもっと深く潜る。


 水の中から、時間が巻き戻る。


 園部は河川敷に立っていた。夜風が頬を撫でる。草の匂い。遠くで車が走る音。誰かと待ち合わせていた。


 人影が近づいてくる。フードを被った細身の人物。園部は警戒していない。知り合いだったのか。


「持ってきたか」


 園部が胸ポケットからUSBメモリを取り出す。相手の手が伸びる。細い手首。シルバーのブレスレット。


「これで全部だ。被験者の経過記録。第一期から第三期まで」


 相手が受け取る。その瞬間、甘い匂いが風に乗って届いた。ジャスミンとバニラ。あの香水。


 園部の意識が揺らぐ。足元がふらつく。


「すまない。でもこれは世に出さなければ――」


 言葉が途切れた。視界がぐるりと回転する。薬だ。何かを飲まされていた。いつ。待ち合わせ前に飲んだ缶コーヒー。自動販売機の脇に置かれていたものを何気なく手に取った。それが。


 膝が崩れる。園部の視界が空を向いた。星が見えた。相手が園部の身体を支えている。荒っぽくはない。むしろ丁寧に。横たえるように。


「あなたの記憶は、残る」


 囁き声。女性の声だった。


 そして水。



  ◇



 冴は標本から手を離した。鼻血が一筋、上唇を伝っている。


 ティッシュで押さえながら、メモを取った。手が震えている。園部の恐怖と絶望が、まだ身体の中を巡っている。


 新たに判明した事実を整理する。


 一つ。園部はUSBメモリを相手に手渡していた。被験者の経過記録。第一期から第三期。鏡花プロジェクトのデータ。


 二つ。園部は待ち合わせ前に鎮静剤入りのコーヒーを飲まされていた。犯人は事前に現場に来て仕掛けていた。計画的犯行。


 三つ。犯人は園部を乱暴に扱わなかった。意識を失わせてから水に沈めた。苦痛を最小限にしようとしていた。


 四つ。「あなたの記憶は、残る」。犯人はこの言葉を残した。記憶を食べる能力を知っている者の言葉だ。冴にいつか食べられることを前提にしている。


 冴は天井を見上げた。蛍光灯が視界に白い線を引く。


 犯人は殺しながら、弔っている。


 解剖台の上で何百もの死を見てきた冴でさえ、その矛盾に息が詰まった。殺人者が被害者の苦痛を気遣う。矛盾した行為。だがそこに人間がいた。冴が食べてきた三人分の記憶の中で、犯人はいつも泣いているような気配があった。美咲のときは逆光で顔が見えなかった。柏木のときは声だけだった。園部のときは手首のブレスレットだけ。


 断片が増えるたびに、犯人の輪郭がより人間に近づいていく。


 スマートフォンを取り出し、嶋田にメッセージを送った。


「園部の記憶を再確認しました。園部は犯人にデータを手渡そうとしていた。待ち合わせの前に鎮静剤を盛られていた。明日、河川敷を再訪したい」


 返信はすぐに来た。


「六時に迎えに行く。寝ろ」


 冴は薄く笑った。嶋田らしい。寝ろと言われて眠れたことはないが、その無骨な気遣いが少しだけ身体の強張りを解す。


 夜が膝の上で身じろぎした。金色の瞳が冴を見上げている。何も知らない瞳。冴はそっと背中を撫でた。毛並みに温もりを確かめるように。


 園部が最後に見た星空を思い出す。水に沈む直前、意識が途切れる間際に園部の目に映った光。あれは月だったのか、街灯だったのか。死者の記憶は常に曖昧だ。だがその曖昧さの中に、真実が沈んでいる。



  ◇



 翌朝、荒川河川敷。


 三月の朝の空気は冷たく、川面から霧が立ちのぼっていた。枯れた葦が風に揺れ、乾いた音を立てている。


 冴は園部の遺体が発見された地点に立った。三年前の記憶と今の風景を重ね合わせる。川の流れは穏やかで、水面に空が映っている。ここで園部は水に沈められた。意識のないまま、静かに。


「捜査報告書を持ってきた」


 嶋田がファイルを広げた。川風が紙をめくろうとする。嶋田が大きな手で押さえた。


「発見地点は護岸の斜面の下。水深約一メートル二十。遺体は仰向けで、頭部が下流を向いていた」


「仰向け」


 冴が呟いた。


「溺死体が仰向けで発見されるのは珍しくありません。ただ、酔余の溺水なら通常はうつ伏せです。足を滑らせて転落した場合、顔面から水に入る」


「仰向けってことは」


「誰かに横たえられた状態で水に入った可能性がある」


 嶋田が報告書のページをめくった。指先が一箇所で止まる。


「おい、朽木先生。これ見てくれ」


 嶋田が指さしたのは、現場の見取り図だった。遺体発見地点の十五メートル上流に「所持品散逸」と記されたマークがある。財布と携帯電話が発見された地点だ。


「遺体と所持品が十五メートル離れている」


「酔っ払いが河川に転落したなら、所持品はポケットに入ったまま一緒に流される。十五メートルも離れるのは不自然だ」


「上流で所持品を落とし、下流で遺体を沈めた。二段階の作業」


 嶋田が唸った。当時の捜査班はこの矛盾を見逃していた。あるいは見て見ぬふりをした。酔余の溺水で処理すれば書類は一枚で済む。


 冴は川沿いを歩いた。足元の土が湿っている。昨夜の雨の名残だ。護岸のコンクリートに沿って上流へ。十五メートル先の地点に立ち、周囲を見回す。右手に自動販売機が一台。園部はおそらくあの自販機のそばに置かれていた缶コーヒーを手に取った。犯人に仕組まれた罠を、何の疑いもなく。


 橋が見えた。歩道橋ではなく、車道を跨ぐ古い高架橋。その橋脚の下は暗く、人目につかない。


「嶋田さん」


 冴が橋脚の根元を指差した。コンクリートの壁面に、何かが刻まれている。色褪せた落書き。だがその中に、見覚えのある形があった。


 二つの円が交差し、その中心に縦線。


 美咲の手帳に書かれていた記号と同じ形だった。


「これは」


「第一の事件で、藤原美咲の手帳にあった記号です」


 嶋田が携帯で写真を撮った。冴は記号をじっと見つめた。偶然ではない。美咲と園部。東栄製薬のインターンと研究員。この二人は、同じ記号を知っていた。


 鏡花プロジェクト。被験者。東栄製薬。同じ記号で繋がる死者たち。園部は単なるデータの運び屋ではなかった。この記号の意味を知っていた。美咲も知っていた。そして知っていた者は、みな殺されている。


 川面を渡る風が冷たかった。水は何も語らない。だが水底に沈められた男の記憶は、少しずつ言葉を取り戻していた。

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