水底の研究者
ホルマリンの匂いが鼻腔の奥に貼りつく。
朽木冴は法医学教室の解剖台を拭きながら、三日前のSMSの文面を反芻していた。三番目の死者の場所。園部真司。荒川河川敷に遺棄されたフリーの製薬研究員。
あの夜、冴は行かなかった。罠である可能性を排除できなかったからだ。だが「行かない」と決めた自分の判断が正しかったのか、今も確信が持てない。
「朽木先生」
嶋田耕一が教室の入口に立っていた。くたびれたスーツの襟元が曲がっている。大きな手に紙袋を提げていた。
「差し入れ。アンパンだ」
「嶋田さん、朝八時に来るのは初めてじゃないですか」
「早起きしたんだよ。娘の弁当を作る練習中でな」
冴は布巾を置いた。嶋田が紙袋をデスクに置く。その動作がいつもより慎重だった。
「本題は」
「園部真司の件だ。東栄製薬に行こうと思う」
冴の指先が止まった。第三の事件。深夜の荒川河川敷で発見された溺死体。当時の検死で「深夜の河川での酔余の溺水」と断定された。だが冴は三年前に園部の記憶を食べている。あの記憶にも、甘い香りが充満していた。
「園部は東栄製薬の研究員だった。退職直前に死んでいる」
「退職ではなく、解雇に近かったという話もある」
嶋田が眉を上げた。
「どこで聞いた」
「当時の検屍記録に、同僚の証言が添付されていました。園部は退職届を出したのではなく、ある日突然来なくなった。荷物も取りに来なかった」
「逃げたか、追い出されたか」
「どちらにせよ、東栄製薬と園部の間に何かがあった」
嶋田が腕を組む。冴の言葉が持つ重さを計るように目を細めた。
「それと、もう一つ」
冴はデスクの引き出しからコピーを取り出した。園部の検屍記録の写し。三年前、冴自身が担当した解剖の報告書だ。
「当時の所見では、血中アルコール濃度〇・一八。泥酔状態で河川に転落した酔余の溺水。肺水量も一般的な淡水溺死と矛盾しなかった」
「だが」
「引っかかるのは胃の内容物です。最後の食事から推定四時間以上経過していた。飲酒後四時間も食事をせずに深夜に河川敷を歩いていた。しかも園部の自宅は板橋区で、遺体が見つかった荒川河川敷のポイントからは十キロ以上離れている」
「酔っ払いの散歩にしちゃ遠すぎるな」
「交通系カードの履歴も当時確認されましたが、最寄り駅の改札記録がない。つまり園部は電車を使わずにその場所に行った。車かタクシーか、あるいは――」
「誰かに連れて行かれたか」
冴は無言で頷いた。嶋田の指がスーツの袖口を掴んだ。癖だ。情報を咀嚼するときにいつもそうする。
「朽木先生。俺は園部の件、当時は別の班だったから詳しくは知らなかった。だが今の話を聞く限り、自殺や事故で片付けるのは無理がある」
「最初から、そう思っていました」
三年前の冴は、それ以上踏み込めなかった。記憶を食べた事実を報告書に書くわけにはいかない。法医学的な所見だけでは、溺水の結論を覆すには根拠が足りなかった。
今は違う。七つの事件を繋ぐ糸が見え始めている。
◇
東栄製薬の本社ビルは品川駅から徒歩七分、ガラス張りの十六階建てだった。受付のソファに座ると、エアコンの風が首筋に触れた。消毒液と微かな花の匂い。企業のロビーは無菌室に似ている、と冴は思った。清潔で、隠しごとの匂いがしない。だからこそ信用できない。
広報部の担当者が現れた。四十代の女性で、完璧な笑顔と完璧な姿勢だった。
「園部真司さんについてですが、退職から三年以上経過しておりまして。在職時の情報については個人情報保護の観点から――」
「彼の死因について再調査の可能性が出てきましてね」
嶋田が警察手帳を見せた。広報の笑顔が一瞬だけ揺れた。
「園部さんは、御社のどの部門に所属されていましたか」
「創薬研究部です。神経系の化合物を専門に」
「神経系」
冴は復唱した。鏡花プロジェクト。残留記憶。脳の神経回路に干渉する研究。すべてが一本の糸で繋がろうとしている。
「退職の理由は」
「一身上の都合と聞いています」
「退職前に、社内でトラブルはありませんでしたか」
広報担当者の指がテーブルの上で組み直された。爪が短く切り揃えられている。
「特にそのような報告は受けておりません」
嘘だ、と冴は思った。指の動きが答えを語っている。人は嘘をつくとき、手が先に反応する。遺体と向き合い続けてきた冴にとって、生者の嘘は死者の沈黙より読みやすい。
「最後にもう一つ。園部さんが退職前に取り組んでいた研究テーマをお教えいただけますか」
「それは研究機密に該当しますので――」
「分かりました。ご協力ありがとうございます」
嶋田が名刺を置いて立ち上がった。冴も続いた。ロビーを出る間際、ガラス越しに振り返った。広報担当者がスマートフォンを耳に当て、誰かに電話をかけていた。口元が強張っている。予定外の来訪者を報告する表情だった。
◇
品川駅のコンコースで缶コーヒーを買った。嶋田が一口飲んで顔をしかめる。
「あの広報、帰り際にすぐ電話してたな」
「見ましたか」
「上に報告してる。俺たちが来たことを」
冴は自分のブラックコーヒーを啜った。苦みが舌の上に広がる。
「園部は退職ではなく、何かを知ったから追い出された。あるいは、知ったことを持ち出そうとして」
「データか」
「可能性はあります。研究者が突然消える。荷物も取りに来ない。その数週間後に河川敷で溺死体として発見される」
嶋田が缶を握り潰した。
「安西に連絡する。園部のデジタル周りを洗ってもらう」
スマートフォンが震えた。安西からのメッセージだった。嶋田が画面を見て、動きを止めた。
「どうしました」
「安西が先回りしてた。園部のメールアカウントの復元に成功したらしい。退職前の一週間に大容量ファイルの送信履歴がある」
「送信先は」
「外部のクラウドストレージだ。アカウント名は伏せてあるが、安西が追跡中だと」
冴はコーヒーの缶をベンチに置いた。園部真司。東栄製薬の神経系研究員。退職直前に大量のデータを外部に送信していた。何を、誰に送ろうとしたのか。
「嶋田さん」
「ああ」
「園部が送ったデータの中に、鏡花プロジェクトに関するものが含まれている可能性があります」
嶋田が冴を見た。その目は冴の推理の根拠を問うていた。だが口には出さなかった。七年の信頼がそうさせている。
「行くか」
「はい」
◇
夜、研究室に戻った冴は、三年前に食べた園部の記憶を反芻した。
暗い水。冷たさ。肺を圧迫する重さ。園部の最期の記憶は水に沈む恐怖で塗り潰されていた。だがその奥に、甘い匂いがあった。他の事件と同じ、あの香水。
そしてもう一つ。園部の記憶の断片に、誰かにUSBメモリを手渡す場面があった。相手の顔は園部の視界に入っていなかった。だが手首が見えていた。細い手首に巻かれたシルバーのブレスレット。
美咲の記憶にあったペンダント。柏木の記憶にあった声。そして園部の記憶にあったブレスレット。同じ人物の異なる断片が、少しずつ像を結んでいく。
スマートフォンが光った。安西からの続報だった。
「園部のメール復元、追加情報あり。送信ファイルのメタデータから件名の一部を抽出。嶋田さんに転送済み」
転送されたメッセージを開く。冴の目が一行に釘付けになった。
復元されたメールの件名に、断片的な文字列が残っていた。
「被験者経過報告・第三期」
冴はスマートフォンを握ったまま、長い間動かなかった。
被験者経過報告。第三期。園部は鏡花プロジェクトの被験者データを、東栄製薬の外に持ち出そうとしていた。退職ではなく、逃亡。そしてその逃亡の先に待っていたのは、荒川の冷たい水だった。
園部は何を知り、何を伝えようとしたのか。
窓の外で、夜の街が静かに息をしている。研究室の蛍光灯が微かに唸っている。猫の夜が膝の上で丸くなり、喉を鳴らしていた。温かい重みが、冴を現実に繋ぎとめている。
デスクの上に広げた七枚の写真。三枚目の園部真司の顔を見つめた。丸顔で、眼鏡をかけた穏やかな男。研究者らしい真面目そうな目をしている。この男は最期に何を見たのか。冴は三年前に食べた記憶を思い出す。暗い水の中で、園部が最後に見上げたのは、水面越しの月明かりだった。
三番目の死者の声が、水底から浮かび上がろうとしていた。




