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リミッター・ハイ  作者: あめたす


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第89話:数字と肉体の衝突

第89話:数字と肉体の衝突


 理解者は、時に最大の障壁となるか。


 群馬の地方球場、薄暗い室内ブルペン。

 結城陽葵のノートパソコンが、無機質な排熱音を立てている。

 画面には、湊の「理想の魔球」を構築するための3Dモデリングと、複雑な数式が展開されていた。


「回転軸の傾き、アタックアングル、そしてリリースポイントの座標。すべて計算し直したわ」


 陽葵は、エンターキーを叩きながら冷徹に告げた。

 彼女の弾き出した「正解」は、日本のボールの縫い目の高さと湿度に最適化された、2500rpm超のストレートの軌道。

 それは、数字上では完璧な物理法則の芸術だった。


 だが。

 湊がマウンドに立ち、その数値通りにボールをリリースしようとした瞬間、決定的なエラーが生じた。


 ザッ。

 スパイクがマウンドを擦る音。

 ティム・リンスカムの跳躍から、真上からのリリースへ。

 湊の右腕が振られる。

 パンッ。

 キャッチャーミットの手前で、白球がわずかにシュート回転しながら垂れた。

 陽葵のPCに接続されたトラッカーが、無慈悲な数値を弾き出す。


 『118km/h 2100rpm』


「……ズレているわ。指先の摩擦係数が、想定値の70%しか出ていない」


 陽葵が、液晶画面から目を離さずに言った。


「フォームを修正して。リリースの瞬間、人差し指と中指の圧力を均等に」


「……できない」


 湊は、右手の指先を見つめたまま、平坦な声で返した。

 アメリカのマイナーリーグで、乾燥した空気と滑るボールに適応するため、自ら皮膚を削り、骨の形すら変形させた指先。

 中指のタコが異常に肥大化し、人差し指との間に不自然な段差ができている。

 それに加え、過酷な登板によって前腕の筋肉は癒着し、手首の可動域が高校時代とは完全に変わってしまっていた。


「僕の今の肉体じゃ、その座標(数字)には合わせられない。癒着した筋肉が、手首の角度を強制的にロックするんだ」


「筋肉の癒着はノイズよ。ストレッチとフォームの矯正で、元のニュートラルな状態に戻して。そうしないと、私の計算式にあなたの体を組み込めない」


 陽葵の声が、わずかに鋭さを帯びる。

 彼女にとって、数字こそが絶対的な真理だった。数字の枠組み(金型)に肉体が合致しないのであれば、それは肉体の「バグ」であり、修正すべきエラーだ。


「……元に戻せば、アメリカで得た『ホップする感覚』そのものが死ぬ」


 湊も譲らない。

 彼にとって、この変形した指先と癒着した筋肉こそが、2年間泥水を啜って手に入れた「武器そのもの」だった。

 このバグがあるからこそ、物理法則を裏切る軌道が生まれる。

 ブルペンの空気が、急速に冷却されていく。

 天才の身体感覚と、秀才の絶対的理論。

 互いを高めようとするからこそ起きる、互いの存在定義を否定し合うような、凄絶な衝突。

 湊がもう一度ボールを握り直す。指の関節が、コキリと不気味な音を立てた。


「僕の指先のバグを前提に、数式を書き換えろ」


「それは物理的に破綻するわ。特定の関節に極端な負荷がかかって、あなたの腕は確実に壊れる」


 平行線。

 液晶画面の青白い光だけが、二人の間に横たわる絶対的な断絶を照らしていた。


 その時。

 トンボ引きでマウンドの土をならしていた織部翠が、無言のまま二人の間に割って入った。

 土埃が舞い上がる。

 翠は、手元のストップウォッチをポケットにしまい、湊の変形した右手と、陽葵のPC画面を交互に見比べた。

 そして、感情の一切こもっていない、フラットな声で言った。


「……二人とも、アプローチが逆」


 翠の言葉に、湊と陽葵の視線が集中する。


「陽葵。数字の金型に、変形した体を押し込もうとするから軋むのよ」


 翠はトンボの柄を軽く叩き、今度は湊を見た。


「湊。あなたは、その変形した体を『結果』だと思ってる。だから数字と合わない」


 翠は、湊の胸元をトンボの柄でトン、と突いた。


「あなたのその歪な肉体そのものを、『新しい金型』にしなさい。そして、陽葵の数字をそこに流し込むの。肉体が前提で、数字が後。……それが、バグを仕様に変える唯一の方法よ」


 翠の言葉が、冷たいブルペンに響いた。

 数字に体を合わせるのではない。

 歪な肉体を金型にして、数字を流し込む。

 湊の脳内で、今まで完全に断絶していた「肉体の感覚」と「陽葵の数式」が、カチリと音を立てて連結するのを感じた。

 湊は右手を開き、異常に発達した前腕の筋肉を見つめた。

 限界を超えて癒着した繊維。

 これを矯正するのではなく、この形状でしか耐えられない「規格外の負荷」をかけるための、新しい金型へ。


「……陽葵」


 湊は、青く冷え切った眼で陽葵を見た。


「僕の筋肉を、もう一度破壊して、鋳造し直す。君の数式に耐えられる、新しい金型に」


 陽葵が、PCの画面から顔を上げた。

 その眼には、恐怖ではなく、狂気的な実験に魅入られた共犯者の光が宿っていた。

 カタカタ、とキーボードを叩く乾いた音が、再びブルペンに響き始める。


 肉体と数字。

 その二つを溶かし合わせる、凄惨な鋳造作業への引き。

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