第88話:独立リーグの吹き溜まり
第88話:独立リーグの吹き溜まり
どん底で出会う者は、救いか、それとも鏡か。
19歳の春。
群馬県にある、錆びついた地方球場。
バックネットの金網はところどころ歪み、春特有の冷たく乾いた風が吹くたびに、キィ、キィと甲高い軋み音を立てていた。
日本のプロ独立リーグ。
そこは、NPBのドラフトから漏れた者、怪我でシステムから弾き出された者たちが集う、巨大な吹き溜まりだった。
「絶対プロに行ってやる」と口では言いながら、彼らのスイングスピードや打球速度のデータは、システムが求める最低ラインを冷酷なまでに下回っている。
シニカルな空気が、土埃とともにグラウンドに沈殿していた。
そんな中、一条湊はブルペンで、ただ黙々と右腕を振り下ろしていた。
ザッ。
レッドスターのスパイクが、乾いたマウンドの土を削り取る。
その音が、湊の耳元で自身の脈拍のように不気味なリズムを刻んでいる。
アメリカの赤土とは違う、柔らかいが滑りやすい日本の黒土。
そして、縫い目の高い日本の公式球。
湊の右手の人差し指と中指は、アメリカの乾燥した空気と滑るボールに適応するため、皮膚が削れ、異常なタコが形成されている。
その変形した「金型」に、日本のボールを嵌め込む作業。
指先と縫い目が擦れる、ザリッという微かな摩擦音。
コンマ数ミリのズレが、回転軸をジャイロへと変異させる。
それを、脳内のキャンバスで冷徹にデッサンし、次の1球で修正する。
ただの、延々と続く物理的なデバッグ作業だった。
「……まだ、投げてたんだ」
ブルペンの入り口から、フラットな声が落ちてきた。
湊が視線を向けると、そこには織部翠が立っていた。
高校時代、同じく投手の理想像を追い求めていた女子選手。
彼女もまた、独立リーグのユニフォームを着ていた。
女子というだけでフィジカルの絶対的な壁にぶつかり、既存のシステムから「評価対象外」とされた存在。
彼女の眼には、哀れみも、慰めもない。
ただ、同じようにシステムから弾き出された部品を確認するような、無機質な視線だった。
湊は、ボールの縫い目から指を離さずに答えた。
「……ズレを、修正しているだけだ」
「そう。なら、邪魔しないわ」
翠は、錆びたパイプ椅子に腰を下ろし、ストップウォッチを取り出した。
そこにあるのは、互いの肉体と物理法則への関心だけだ。
だが、その哀れみのない冷たさが、アメリカで完全に凍りついていた湊の思考回路に、わずかな酸素を送り込んでいた。
練習を終え、日が落ちかけた球場の入り口。
カチャ、カチャ。
硬質なキーボードの打鍵音が、薄暗いコンコースに響いていた。
そこに立っていたのは、濃紺のパンツスーツに身を包み、ノートパソコンを片手で支えながら画面を見つめる結城陽葵だった。
高校時代、手書きの黒いノートに数式を書き込んでいた彼女は、今は大学へ進学し、データアナリストとして自らの解析技術を先鋭化させていた。
「……遅かったわね」
陽葵は、画面から目を離さずに言った。
湊が歩み寄ると、液晶の青白い光が、彼女の無表情な横顔を照らし出している。
PCの排熱ファンが、微かに唸り声を上げている。
「マイナーリーグでの、あなたの全登板のトラッキングデータ。それに、今日のブルペンでの回転軸の推移」
彼女がエンターキーを叩くと、画面に無数のグラフと数値が展開された。
それは、湊が感覚として処理していた「ズレ」を、完璧に可視化したものだった。
陽葵は、湊の特異なデータを「評価不能」として切り捨てた日米のシステムを否定するために、自らの手で物理的数値を弾き出していた。
「122キロ、2500rpm。アメリカの乾燥した空気で最適化されたあなたの指先の摩擦係数は、日本のボールでは過剰に働きすぎる」
陽葵は、湊の右手の変形した指先を冷徹な目で見下ろした。
かつての聖隷高校での狂気と知略の歯車が、この寂れた独立リーグの球場で、再び噛み合い始める。
だが、それは互いの仮説を証明するための、冷徹な実験の再開だった。
「あなたの理論は間違っていなかった。それを証明しに来たの」
陽葵の言葉は、ただの事実の提示だった。
だが、その直後。
カチャ、と彼女がキーボードを叩くと、画面に警告を示す赤いグラフが表示された。
「……ただし」
陽葵は、液晶画面の光を反射する冷たい瞳で湊を射抜いた。
「今のあなたの変形した指先のままでは、日本のボールで『完璧な2500rpm』の回転軸は作れない。物理的に、破綻しているわ」
画面の赤いグラフが、湊の現在の身体構造の欠陥を無慈悲に宣告していた。
湊は、自分の右手を見つめた。
アメリカで変異させた金型が、ここでは使い物にならないという事実。
夕闇の迫るコンコース。
PCの排熱ファンの唸り音だけが、不気味に響き続ける。
「……なら、金型そのものを、作り変えるだけだ」
湊の眼の奥で、感情を排した青い炎が、静かに、そして確実に明滅を始めた。




