第87話:18歳の空白とドラフトの残酷
第87話:18歳の空白とドラフトの残酷
システムが求める「正解」に、異端はどう抗うべきか。
18歳。アメリカ合衆国、シングルAの薄暗いブルペン。
乾燥した空気が、喉の粘膜をヤスリのように削っていく。
一条湊は、ロージンバッグを叩いた。舞い散る白い粉の奥で、キャッチャーのミットが外角低めに構えられる。
ザッ。
レッドスターのスパイクが、硬いマウンドの土を削る。
変形し、硬く角質化した人差し指と中指が、公式球の低い縫い目を極限の摩擦係数で捉える。
無音のリリース。
放たれた白球は、打者の手元で重力を拒絶してホップし、バットの上を通過した。
パァン。
乾いた捕球音。三振。
この日の登板も、スコアボードには無機質な「0」が並んだ。
防御率1点台。シングルAの打者たちは、誰も湊の球の入射角にバットを合わせられない。
だが、バックネット裏に設置されたトラックマンの液晶モニターは、冷酷な赤い数字を弾き出していた。
『76MPH』。約122キロ。
試合後、ロッカールームで荷物をまとめる湊に、ピッチングコーチが書類から目を離さずに告げた。
「Very good. But slow.(素晴らしい。だが遅い)」
それが、2年間アメリカの泥水を啜り続けた湊への、最終的な評価コードだった。
メジャーリーグの予備軍であるマイナーの階層は、徹底した物理的データによって管理されている。
打球速度、スイングスピード、そして絶対的な指標である「球速」。
システムが定めた金型に合致しない要素は、すべてエラーとして処理される。
90マイル(約145キロ)を超えない投手は、どれほどアウトを積み重ねようと、上の階級(ダブルA)では通用しない。それがフロントの弾き出した「正解」だった。
球速が遅いということは、伸び代がないという記号に他ならない。
湊の異常発達した前腕と、2500rpmの回転数を生み出す変形した指先は、彼らのシステムにおいては「怪我のリスクが高い欠陥品」としか見なされなかった。
ロッカーの金属扉を閉める冷たい音が響く。
壁に貼られたダブルAへの昇格リスト。
そこに、Minato Ichijoの文字列は存在しない。
物理法則にバグを起こし、打者を圧倒し続けても、システムそのものをハッキングすることはできなかった。
湊は、誰に抗議することもなく、ただ無表情のままボストンバッグのジッパーを引いた。
ジィィィ、という噛み合わせの音が、やけに大きくロッカールームに響いた。
アメリカでの限界。
それは、実力不足ではない。既存の金型から、物理的に弾き出されただけの結果だった。
18歳の秋。
湊は、日本の同級生たちと同じタイミングで、日本野球機構へのプロ志望届を提出した。
飛行機の狭いシートで、湊は自身の右手を見つめた。
アメリカの乾燥した空気と滑るボールに適応するため、皮膚を削り、骨の形すら歪にさせた指先。
これが日本のシステムに適合するかどうかは、計算式に入れるまでもなく、結果が出ていたのかもしれない。
10月。
実家の薄暗いリビング。
液晶テレビが、無機質な青白い光を部屋に放っている。
ドラフト会議の特番。
画面の中では、華やかなスーツを着たアナウンサーが、今年の「目玉」となる高校生たちの数値を興奮気味に読み上げていた。
『星海大附属の神崎投手、MAX155キロの剛腕!』
『聖隷高校の氷室投手、超高校級左腕!』
かつて湊が対峙し、あるいは共に旧秩序を破壊した同級生たちが、システムに「才能」として承認され、喝采を浴びている。
スピーカーから流れる「感動的な努力の軌跡」や「チームとの絆」というノイズ。
湊はソファに深く腰掛け、ただ無表情のまま、その光の点滅を見つめていた。
手元のマグカップの氷が溶け、カラン、と乾いた音を立てる。
テレビ画面が切り替わり、各球団の指名が次々と発表されていく。
湊の特異なマイナーリーグでの成績。
防御率1点台という結果も、日本のスカウトの評価システムに入力すれば、「アメリカの低レベルなリーグでの変則投球」「MAX122キロのスピード不足」というエラーコードに変換される。
彼らにとって、アメリカで肉体を歪ませてまで得た2500rpmのホップ成分は、直接目で見て計測できない限り、存在しないも同然だった。
「……選択終了」
テレビから、無機質なアナウンスが流れた。
育成枠の最終指名が終わっても、一条湊の名前が呼ばれることはなかった。
日米双方の「常識」という巨大なシステムから、完全に弾き出された瞬間。
感情の波はない。
悔しさも、悲しさもない。
湊はただ、手元のリモコンのボタンを押し、テレビの電源を切った。
プツン。
液晶の光が消え、部屋は完全な静寂と暗闇に沈んだ。
18歳の、完全なる孤独。
深夜の庭。
外灯の冷たい水銀灯が、コンクリートの壁を無機質に照らしている。
ザッ。
湊のスパイクが、乾いた砂を削る。
右手には、日本の公式球。
アメリカのボールよりも縫い目が高く、しっとりと手に吸い付く感覚。
湊は、アメリカで変形させた指先を、その縫い目に沿わせた。
皮膚のタコと、縫い目の凹凸が噛み合う摩擦係数。
跳躍。
無音のリリース。
白球が、暗闇を一直線に切り裂き、コンクリートの壁に激突する。
ドォォォン!!
深夜の庭に、重い爆音が響き渡った。
跳ね返ってきたボールを無表情でキャッチし、湊は指先についた土埃を見つめる。
「……ズレている」
アメリカの金型で日本のボールを投げたことで生じた、数ミリの回転軸のブレ。
システムから否定されても、彼の冷徹なデッサンはまだ死んでいなかった。
圧倒的な孤独の中で、次なる物理法則の再構築が、静かに始動していた。




