第90話:狂気の肉体鋳造
第90話:狂気の肉体鋳造
肉体を破壊せずに、真の金型を作り出すことは可能か。
地方球場から車で30分。
国道沿いにある、24時間営業の薄暗いウエイトトレーニングジム。
ガシャァァン。
分厚いラバーマットの上に、重さ180キロのバーベルが乱暴に叩き落とされた。
鈍い金属音が、深夜のフロアに重く響き渡る。
一条湊は、バーベルを握っていた両手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
Tシャツは汗で完全に肌に張り付き、異常に発達した大腿四頭筋とハムストリングスが、痙攣するように小さく震えている。
デッドリフト。
そして、バーベルスクワット、ブルガリアンスクワット。
高校時代、自宅の壁当てと自重トレーニングのみで球質を磨き上げてきた湊が、今、極限の高重量ウエイトによる「肉体の鋳造」へと完全に舵を切っていた。
結城陽葵の弾き出した「2500rpm超えのホップ成分」という狂気的な数式。
アメリカで変形し、癒着した湊の指先と前腕のバグ。
この二つを物理的に連結させるためには、特定の関節や靭帯に「本来なら破壊されるはずの規格外の負荷」をかける必要がある。
その負荷に耐えうる土台。
強靭な下半身と、ロスなく腕へエネルギーを伝達するための胸郭の厚み。
湊は今、自らの体を「精密な金型」として再定義し、内側から細胞を破壊し、再構築する作業を繰り返していた。
「……シトルリン、5グラム。ベータアラニン、3グラム」
ベンチに座っていた陽葵が、電子はかりで白い粉末を正確に計量しながら、無機質な声で数値を読み上げた。
彼女の横には、BCAA、クレアチン、EAAといったサプリメントのボトルが、まるで化学実験室のように整然と並べられている。
「血中の一酸化窒素濃度を極限まで高めて、筋繊維のパンプアップを維持する。ベータアラニンでカルノシン濃度を上げ、乳酸の発生によるパフォーマンスの低下を遅延させる。……飲んで」
陽葵が差し出したシェイカーを、湊は無表情で受け取った。
ドロリとした不気味な青色の液体。
それを一気に胃袋へ流し込む。
数分後。
湊の皮膚の下で、ベータアラニンのフラッシュと呼ばれる特有のピリピリとした痛痒さが全身を駆け巡った。
毛細血管が拡張し、全身の血流が暴力的な速度で巡り始める。
ドクン、ドクン。
耳の奥で、自らの心拍音が強烈なノイズとなって響く。
湊は再び、バーベルの前に立った。
己の肉体をただの「器」として俯瞰する。
精神論や根性ではない。純粋な物理的・化学的な操作。
筋肉の繊維一本一本がミシミシと断裂し、修復され、より硬く、分厚い鉄の塊へと変わっていく。
指先の異常な変形も、前腕の筋肉の癒着も、すべては「新しい機能(仕様)」としてこの金型に組み込まれていく。
数ヶ月後。
うだるような暑さが群馬を包む、夏の独立リーグ。
試合前のブルペン。
湊がマウンドに立った。
高校時代とは比べ物にならないほど、下半身の厚みが増している。
太腿の筋肉がユニフォームのパンツをパンパンに張り詰めさせ、デクラインプッシュアップで鍛え抜かれた胸郭が、不気味なほどの質量を誇示していた。
キャッチャーミットを構えるのは、独立リーグのベテラン捕手。
後ろには、PCを開いた陽葵と、ストップウォッチを持った織部翠が立っている。
湊は、セットポジションに入った。
アメリカの乾燥で削れ、さらに硬く角質化した人差し指と中指のタコ。
そこに、日本の公式球の縫い目が、まるでパズルのピースのように完璧な摩擦係数で噛み合った。
左足を、静かに上げる。
凄絶なウエイトトレーニングで鋳造された大腿四頭筋が、爆発的なエネルギーを地面から吸い上げる。
そのエネルギーが、胸郭を通り、癒着した前腕の筋肉によって「コンマ数ミリ」だけリリースを遅らせるという物理的バグへと変換される。
ここから、わずか1秒足らずの時間。
スローモーション。
無音のリリース。
湊の指先から、白球が放たれた。
パァァァン!!!
ブルペンの空気が弾け飛んだかのような、鼓膜を突き破る重低音。
キャッチャーが、その強烈な衝撃に耐えきれず、ミットごと後方へ体勢を崩した。
球速は、122キロ。
だが、陽葵のPCに接続されたトラッカーの液晶画面には、信じがたい無機質な数字が弾き出されていた。
『2580rpm』
回転軸の傾き、ほぼゼロ。
完全なるホップ成分を宿した、物理法則の破壊。
「……金型が、完成したわ」
陽葵が、液晶画面を見つめたまま息を呑んだ。
湊は、ロージンバッグの粉が舞う中、自らの右腕を無表情に見下ろした。
感情はない。ただ、計算式が実証されたという冷徹な事実だけが、そこにあった。




