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リミッター・ハイ  作者: あめたす


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第84話:砂上の神殿

第84話:砂上の神殿


 すべてを失った時、残るものは何か。


 甲子園の空は、残酷なほどに高く、青かった。

 試合終了のサイレンが、鼓膜を劈く。

 スコアボードの光。1-8。

 聖隷高校の夏が、終わった。

 狂気と知略で組み上げた砂上の神殿が、完全に崩れ去った瞬間だった。


 グラウンドの黒土。

 3年生たちが、無言でそれをスパイクの袋にかき集めている。

 蔵敷の巨体が震え、黒田が泥だらけのマスクをじっと見つめている。


 だが。

 ベンチの前に立つ豊田零司だけは、土に触れようとはしなかった。

 右腕を三角巾で吊ったまま。

 ただ、静かに、氷のような冷たさで空を見上げている。

 王は、何も持ち帰らない。

 その一切の未練を削ぎ落とした背中が、湊の目に焼き付いた。

        

 帰りの新幹線。

 窓の外を流れる景色が、夕暮れの茜色から夜の黒へと変色していく。

 車内は、死んだような静寂に包まれていた。

 一条湊は、自らの両手を見つめていた。

 異常に発達した前腕。

 指先の、裂けて変色したマメ。

 10年間、壁に向かってボールを投げ続けた。

 物理法則を捻じ曲げるための、狂気的な反復の証。


 だが。

 甲子園のマウンドで、自分を支配したのは「感情」だった。

 豊田先輩の代わりに。僕が抑えなければ。

 その過度な責任感。

 「赤い炎」が、冷徹なデッサンを血の色に染め上げた。

 結果として残ったのは、ただの打ちごろの棒球。

 自分の作り上げた理論が。

 狂気的な特訓のすべてが。

 感情の暴走によって、一瞬でただの「ガラクタ」に成り下がった。


 隣の席。

 結城陽葵は、真っ黒に汚れたノートを閉じたまま、窓の外を見つめていた。

 数字は嘘をつかない。

 湊の理論の崩壊を、一番残酷に見せつけられたのは彼女だった。

        

 季節が巡る。

 秋。

 横浜スタジアムのアンツーカーは、夏の熱を完全に失い、乾いた茶色に冷え切っていた。

 3年生が引退した。

 チームを支配していた「絶対的な壁」が消えた。


 新チームの始動。

 だが、そこにあったのは解放感ではない。

 圧倒的な、重力の喪失だった。

 豊田という150キロの武。

 湊という122キロの狂気。

 両極端な歯車が噛み合って起きていた奇跡。

 その片方の歯車が失われたことで、チームは推進力を完全に失った。


 マウンドには、新エースの鳴海聖が立っている。

 だが、彼の投球は荒れていた。

 夏の甲子園で覚醒したはずの『バニッシュボール』。

 王の死という極限の死地で感染した狂気バグは、平常時のマウンドでは再現できなかった。


 意図的なすっぽ抜け。

 その感覚が、指先から完全に消え失せている。

 ただの暴投が、バックネットに突き刺さる。

 ガシャァァァン。

 金網の鳴る音が、秋の空虚なスタジアムに響いた。


 秋の神奈川県大会、新人戦。

 2回戦。

 相手は、無名の公立校だった。

 鳴海が崩れ、リリーフとして湊がマウンドへ向かった。


 ザッ。

 ザッ。

 相手走者が、スパイクで土を噛む。

 かつては、その音が湊の耳元で自らの心臓の鼓動のように響き、空間を支配するためのトリガーとなっていた。


 だが、今は違う。

 ただの、乾いた足音。

 相手の重心の移動をデッサンしようとしても、キャンバスには何も描かれない。

 視覚が、完全に濁っている。

 佐伯誠二が、ミットを構える。

 湊は、左足を上げる。

 ティム・リンスカムの跳躍。

 だが、前腕にあの異常な熱はない。

 痛覚のセンサーが、正しい座標を弾き出さない。

 甲子園での「赤い炎」の記憶が、リリースの瞬間の指先をわずかに狂わせる。

 ここから、わずか1秒足らずの時間が始まる。

 スローモーション。

 放たれた直球。

 回転軸が、バラバラにブレている。

 120キロ。

 重力を拒絶する2400rpmのバックスピンは、そこにはない。

 ただ、重力に従ってミットへと垂れていく、凡庸な球。

 相手打者のバットが、無造作に振り出される。


 カキィィン。


 乾いた金属音。

 現実のスピードが一気に戻る。

 打球が、外野の芝生を力なく転がっていく。

 感情を殺せない。

 理論を再構築できない。

 スコアボードに、コールド負けの数字が刻まれる。


 ゲームセット。

 圧倒的な無力感。

 聖隷高校は、魔法が解けたかのように、ただの「弱小校」へと逆戻りした。

 湊は、マウンドの乾いた土を見つめていた。

 自らの武器を完全に失った、空っぽの右手。

 夏を焼き尽くした炎は、もうどこにもない。

 物語は、凍りつくような冬へと向かおうとしていた。

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