第83話:透明な解剖
第83話:透明な解剖
感情は、どれほど正確にデータを狂わせるか。
4回表。清稜学園の攻撃。
夏の甲子園の太陽が、マウンドの一条湊を容赦なく照りつけている。
湊の額から、滝のような汗が流れ落ちた。
息が上がる。
前腕の筋肉は、パンパンに張り詰め、今にも破裂しそうなほどの熱を放っていた。
ザッ。
ザッ。
塁上の清稜のランナーが、黒土をスパイクで削る音。
それが、湊の耳元で、自らの心臓の鼓動のように不気味に響き続けている。
焦り。
恐怖。
「豊田先輩の代わりに、僕が抑えなければ」。
その過度な責任感が、かつての冷静な「青い炎」を完全に焼き尽くし、制御不能な「赤い炎」へと変異させていた。
打席には、清稜の3番打者。
彼らの目は、感情を持たない機械のレンズのようだった。
清稜のデータ班は、すでに湊の「異常」を完全に数値化し、共有し終えていた。
湊の球質が、1回から3回にかけて、どのように劣化しているか。
跳躍の高さ、肩の開き、そして、最も重要な「回転軸のブレ」。
(……122キロ。シュート回転。高め。それ以外は、すべて捨てる)
清稜の打者たちの脳内には、極めてシンプルなプログラムだけがインストールされている。
湊は、セットポジションに入った。
佐伯誠二のミットが、外角低めを要求する。
だが、湊の視界は、真っ赤な炎でぼやけていた。
打者の重心をデッサンすることなど、もうできない。
ただ、ミットに向かって「強い球」を力任せに叩きつけるだけ。
スローモーション。
湊の右腕が振られる。
力みから生じる、コンマ数秒の肩の開き。
指先がボールの縫い目を均等に弾き出せず、不規則なジャイロ回転が生じる。
ボールは、佐伯が構えた外角低めから大きく外れ、真ん中高めへとシュート回転しながら吸い込まれていく。
ただの、打ちごろの棒球。
カキィィン!!
清稜の3番打者が、全く無駄のないスイングでそれを弾き返した。
右中間を真っ二つに割る、痛烈なツーベースヒット。
二塁ランナーが、悠々とホームベースを踏む。
3-0。
点差が、絶望的に開いていく。
「……タイム!」
佐伯が、たまらずマウンドへ駆け寄った。
泥だらけのマスクを外し、湊の胸ぐらを掴むほどの勢いで迫る。
「湊! 目を覚ませ! お前の球は、力で押す球じゃない! 『ズレ』で勝負するんだろ! 力を抜け!」
佐伯の必死の叱咤。
だが、湊の焦点の合わない目は、佐伯を通り越し、ベンチで右腕を吊ったまま微動だにしない豊田の姿だけを捉えていた。
「……抜けない。力を抜いたら、打たれる。豊田先輩がいない今、僕が力でねじ伏せるしかないんだ!」
湊の声は、悲鳴のように甲高く上ずっていた。
理論の崩壊。
自らを「122キロの異端」と定義づけていたはずの知性が、感情の暴走によって、ただの「速い球を投げようとする凡庸な投手」へと彼を成り下げてしまったのだ。
佐伯は、絶望的な顔で湊から手を離した。
もう、言葉は届かない。
プレイボール。
ワンアウト二、三塁。
打席には、清稜の4番打者。
湊は、残されたすべての力と怒りを込めて、右腕を振り下ろした。
だが、それはもはや投球ではなかった。
ただの、物理的な放り投げ。
カァァァン!!
この日一番の、乾いた金属音。
甲子園の空に、白球が高々と舞い上がった。
湊は、マウンドの土に両膝をついたまま、その軌道を呆然と見上げていた。
ボールは、ライトスタンドの中段へと、残酷なほど美しい放物線を描いて吸い込まれていく。
満塁ホームラン。
7-0。
アルプススタンドの熱狂が、遠いノイズのように響く。
湊の視界から、ついに赤い炎すらも消え失せた。
残ったのは、圧倒的な敗北感と、自分の手で神殿を壊してしまったという、底なしの虚無だけだった。




