第82話:暴走する色彩
第82話:暴走する色彩
背負いすぎた意思は、誰を壊すのか。
甲子園、2回戦。
一条湊は、独特の黒土が敷き詰められたマウンドの頂に立っていた。
プレイボールのサイレンが鳴り響く。
だが、湊の耳にはその音が届かない。
代わりに、満員のアルプススタンドから降り注ぐブラスバンドの重低音が、不快な耳鳴りのように脳を直接揺さぶっていた。
(……僕が、抑えなければならない)
ベンチには、右腕を吊った豊田零司が座っている。
彼から玉座を奪い、そして完全に破壊したのは自分だ。
だからこそ、豊田の分まで、自分がこのチームの新しい「重力」にならなければならない。
強烈な責任感。
それが、神奈川大会の決勝で研ぎ澄まされたはずの「青い炎(冷徹な意思)」を、不純な「赤い炎(感情)」へと急速に変色させていく。
打席には、関西の強豪・清稜学園の1番打者。
超高校級のデータ野球を体現する、機械のような打線。
湊は、セットポジションに入った。
佐伯誠二のミットが、アウトコースの低めを要求する。
湊の右腕が振られる。
スローモーション。
放たれた白球。球速は122キロ。
だが、今の湊の前腕は、過度な緊張と責任感によって、異常なほどの熱を帯びていた。
岩のように硬直した筋肉が、意図せずして強烈なスピンをボールに与える。
2500rpm。
重力を完全に無視したホップ成分。
清稜の1番打者が、ボールの下を激しく空振りする。
パァァン!
「ストライク!」
スタジアムが、122キロの剛速球という矛盾にどよめいた。
湊の目に、一瞬だけ優越感がよぎる。
力で、ねじ伏せられる。
150キロがなくても、僕の球なら、このデータ軍団を力でねじ伏せられる。
続く2球目。
佐伯は、タイミングを外すために『バルカンチェンジ』のサインを出した。
だが、湊は無意識に首を振った。
変化球に逃げたくない。
豊田のように、真っ直ぐな力で、王としてマウンドに君臨したい。
その焦りが、湊の思考を支配していく。
湊は、再びストレートを投げ込んだ。
打者のバットが、またしても空を切る。
力での連続三振。
スコアボードに、ゼロが刻まれていく。
しかし。
ベンチの奥深く。
結城陽葵だけは、歓声の中で一人、冷や汗を流していた。
彼女の膝の上にある、真っ黒に汚れたノート。
そこに書き込まれる湊のデータが、1回表と2回表で、不気味なほどに変質し始めているのだ。
「……狂ってる」
陽葵は、折れた鉛筆の先を見つめたまま、微かに震える声で呟いた。
湊の「狂気」ではない。
湊の「理論」が、狂っているのだ。
マウンドの湊。
彼の脳内のキャンバスに描かれるデッサンが、完全に色を失い、真っ赤に染まっていた。
清稜の打者の、重心の移動。
右足の蹴り出し。
そんな情報は、もう湊の目に入っていない。
彼の視界に映っているのは、怪我でマウンドを去った豊田の幻影と、アルプススタンドの圧倒的な「圧」だけだった。
「強い球を投げなければ」。
その強迫観念が、湊のフォームを内側から崩壊させていく。
ティム・リンスカムの跳躍が、わずかに低くなる。
右腕を力任せに振ろうとするため、肩の開きがコンマ数秒早くなる。
痛覚をセンサーにするのではなく、痛みを力でねじ伏せようとしている。
3回表。
佐伯が、マウンドへ駆け寄った。
マスクを外し、額の汗を拭いながら湊の胸を突く。
「湊! おかしいぞ! お前の球は、力で押す球じゃないだろ!」
佐伯の強い口調。
だが、湊の目には、その言葉すら届いていなかった。
湊の瞳孔が開いている。赤い炎に完全に支配された目。
「……大丈夫だ。僕は、投げられる」
湊は、佐伯を冷たく突き放した。
佐伯が、唇を噛んでホームベースへ戻る。
プレイボール。
湊は、限界を超えた右腕を、さらに力任せに振り下ろした。
だが。
無理な力みが生んだリリースは、回転軸を致命的に狂わせていた。
ボールの縫い目に均等に力が伝わらない。
2400rpmの美しいバックスピンが、不規則なジャイロ回転へと変質する。
ホップしない。
ただの、シュート回転しながら真ん中へ集まる「122キロの棒球」。
カキィィン!!
清稜の打者が、その球を見逃すはずがなかった。
痛烈な打球が、湊の足元を抜け、センター前へと転がっていく。
ノーアウト一塁。
ベンチの陽葵が、ノートを強く握りしめた。
狂気の理論が、感情という赤い炎によって内側から崩壊していく音。
それが、甲子園の土に不気味に響き渡った。




