第81話:熱狂の影
第81話:熱狂の影
夢の舞台は、誰のためにあるのか。
視界が白飛びするほどの、暴力的な太陽。
鼓膜を突き破るような、圧倒的な蝉時雨とブラスバンドの爆音。
兵庫県西宮市。阪神甲子園球場。
グラウンドの土は、横浜スタジアムのアンツーカーとは違う、独特の黒土だった。
夏の熱気で、外野フェンスの緑がぐにゃりと歪んで見える。
聖隷高校野球部は、ついに夢の舞台の土を踏んだ。
だが。
三塁側ベンチの最も深い暗がりだけは、まるで冷凍庫のように冷たかった。
エース、豊田零司。
彼はパイプ椅子に深く腰掛けたまま、グラウンドの光を拒絶するように俯いている。
ユニフォームの下に隠された右腕は、ピクリとも動かない。
マウンドの熱狂から完全に切り離された、絶対的な「冷たさ」。
王はそこにいるだけで、チームに巨大な死の気配を撒き散らしていた。
甲子園、初戦。
試合前のブルペン。
「痛みはない。投げられます」
豊田は、鬼塚監督の前に立ち、無表情のまま直訴した。
それは嘘だった。誰の目にも明らかな虚勢だった。
だが、王としての最後の意地が、彼をそこに立たせていた。
鬼塚監督は、腕を組んだまま、豊田の目を見据えた。
そして、非情な宣告を下した。
「座っていろ」
絶対的エースの、完全なる登板回避。
代わりに甲子園のマウンドへ上がったのは、聖隷の異端のパレットたちだった。
先発は、次期エースの鳴海聖。
極度のプレッシャーが渦巻く中、彼は神奈川大会の決勝で掴んだ「狂気」を完璧に制御していた。
中指の縫い目を外し、手首をロックする。
放たれた白球は、打者の手元で視界から完全に消失する。
『バニッシュボール』。
全国の強打者たちのバットが、次々と虚空を叩き割った。
さらに、風間の無音リリース。望月の100キロの遅球。
彼らの知略の継投が、相手打線の視覚を上下左右に揺さぶる。
グラウンドでは、代打の椛島隆士が、泥だらけになって一塁へヘッドスライディングを決めていた。
才能を潰された者の悲哀を乗り越え、自ら泥を被る。
豊田の「冷たさ」とは対極にある、泥臭い「熱さ」。
一条湊は、ベンチの最前列でその光景を見つめていた。
彼の目は、キャンバスに向かう画家のそれだった。
相手走者が一塁から二塁へスタートを切る瞬間。
その重心の移動、右足の蹴り出しの角度を、脳内で冷徹に「デッサン」する。
ミリ単位の動作から、相手の戦術を読み解いていく。
聖隷は強い。
知略と狂気が完全に噛み合っている。
だが、湊の胸の奥には、得体の知れない不安が広がっていた。
このチームには、重力がない。
豊田零司という、150キロの絶対的な質量がない。
パレットの絵の具だけで描かれた砂上の神殿は、ほんのわずかなノイズで崩れ去るのではないか。
試合は、聖隷が辛くも逃げ切り、初戦を突破した。
アルプススタンドが、歓喜の波に揺れる。
しかし、湊の心は晴れなかった。
その夜。
宿舎の地下にある、冷え切った素振り部屋。
湊は一人でバットを握っていた。
神奈川大会で限界を超えた右腕は、未だに異常な熱を放っている。
ドクン、ドクンと、自分の脈拍が前腕で暴れているのが分かった。
カツン。
不意に、暗がりから乾いた音がした。
水銀灯の冷たい光の中に、巨大な影が立っていた。
豊田零司だった。
彼は無言のまま、湊の前に歩み寄った。
そして、自らの右肘に幾重にも巻かれた分厚いテーピングとサポーターを、ゆっくりと剥がしていった。
湊の観察眼が、その現実にピントを合わせる。
デッサンするまでもない、残酷な事実。
関節は無惨に腫れ上がり、本来の骨の形を完全に失っていた。
赤黒い内出血が広範囲に広がり、皮膚の下で組織が壊死しているのが分かる。
ボールを握るどころか、腕を真っ直ぐに伸ばすことすら不可能な、完全なる破壊。
「……俺の夏は、終わった」
豊田の低い声が、コンクリートの壁に吸い込まれた。
感情はない。ただの事実の通達。
王が、自らの死を宣告した瞬間だった。
湊の心臓が、激しく跳ねた。
豊田の絶対的な「武」が、完全に失われた。
リミッターの正体であった「俺が抑えれば勝てる」という傲慢な自己完結。
それを物理的に叩き壊したのは、他ならぬ自分だ。
ならば。
豊田の分まで、自分がこのチームを勝たせなければならない。
自分が王の代わりにならなければ、あの泥だらけになって戦う先輩たちの夏が終わってしまう。
静寂。
感情を完全に排し、純粋な意思のみで統制されていたはずの湊の「青い炎」。
その氷のような空間の奥底で。
かつて父に向けたような怒りと、過度な責任感にまみれた「赤い炎」が。
チリチリと、不気味な音を立てて燻り始めた。
翌日。
ミーティングルームの空気が、重く張り詰めていた。
2回戦の相手が、モニターに映し出される。
関西の強豪・清稜学園。
超高校級のデータ野球を誇り、相手の弱点を機械のように正確に突いてくる、感情を持たない軍団。
画面越しに映る彼らのプレー。
ザッ。
ザッ。
湊の耳元で、清稜の選手たちがスパイクで土を噛む音が鳴った。
いや、幻聴だ。
だが、その足音は、湊自身の焦燥を刻む心臓の鼓動のように、不気味に、そして確実に響き続けている。
逃げられない。
彼らは必ず、こちらの最大の弱点である「王の不在」を突いてくる。
「2回戦」
鬼塚監督が、ホワイトボードを叩いた。
指揮官の目が、真っ直ぐに湊を射抜く。
結城陽葵が、真っ黒なノートを強く握りしめたのが見えた。
「先発は、一条。お前が行け」
甲子園。夢の舞台。
しかし、今の湊の目には、そこが白日の下に晒された凄惨な処刑場にしか見えなかった。
胸の奥で、赤い炎が急速に酸素を吸い込み、燃え広がっていく。
絶望への暴走が、今、静かに始まろうとしていた。




