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リミッター・ハイ  作者: あめたす


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第85話:壁の向こう側

第85話:壁の向こう側


 この狂気を終わらせるには、どこへ行けばいいのか。 


 新人戦敗退から一週間後。

 聖隷高校のグラウンドには、重く淀んだ空気が沈殿していた。

 秋の風が、乾いた茶色の土を巻き上げる。

 マウンドに、一条湊の姿はない。


「……一条のやつ、今日も休みか」


 キャッチャーの佐伯誠二が、防具を外しながら低い声でこぼした。

 浅倉仁衣菜が、救急箱の取っ手をきつく握りしめている。

 視線が、誰もいないブルペンをさまよっていた。

 ベンチの奥。

 結城陽葵は、開かれたままの真っ黒なノートをじっと見つめていた。

 そこには、回転軸のブレを示す残酷な数式が並んでいる。


「……限界だったのよ」


 陽葵が、誰に宛てるでもなく、静かに呟いた。


「湊くんの理論は、この場所ではもう、呼吸ができない」

        

 同じ頃。

 湊は、自宅の庭に立っていた。

 夕闇が迫る空。

 濁った茜色が、徐々に夜の深青へと浸食されていく。


 目の前には、コンクリートのブロック塀。

 通称、壁さん。

 10年間。

 何万回、何十万回と白球をぶつけ続けた。

 表面はボロボロに崩れ、深く抉れている。

 湊の狂気的な反復を、ただ無言で受け止め続けてきた、唯一無二の理解者。


 湊の手には、黒いスパイクが握られていた。

 赤星モデルの『レッドスター』。

 泥にまみれ、革はすり減り、形は歪んでいる。

 そしてもう片方の手には、小さなビニール袋。

 甲子園の黒土。

 湊は、ゆっくりとしゃがみ込んだ。

 壁の根元。

 抉れたコンクリートの前に、スパイクを揃えて置く。

 その横に、黒土の入った袋をそっと並べた。

 異常に発達した前腕を見る。

 指先の裂けたマメは、すでに硬いタコに変わっていた。

 甲子園で暴走した、あの焼け焦げるような筋肉の熱はない。

 神経が筋肉を強制停止させる、あのリミッターの軋みも、今は完全に沈黙していた。

 湊は、壁の抉れたくぼみを、指先で静かになぞった。

 ざらついた感触。

 脳内のキャンバスに、極めて冷徹な線が引かれていく。

 透明な自己解剖。


 (……意思が強すぎると、読まれる)


 甲子園のマウンドで、湊はそれを完全に理解した。

 豊田零司の不在。

 先輩たちの夏を終わらせてはならないという、過度な責任感。

 「赤い炎」という名の感情。

 それは、日本の高校野球というシステムが持つ、逃れられない重力だった。


 熱狂。精神論。自己犠牲。

 それらは確かに美しい。

 かつての豊田や、代打で泥を被った椛島のように、チームを牽引する巨大な力になる。


 だが。

 湊の投じる「122キロの2400rpm」という物理法則のバグは、その重力の中では絶対に成立しない。

 感情のノイズが、コンマ数ミリの指先の掛かりを狂わせる。

 力みが、回転軸をジャイロへと変質させる。

 意思と感情は、決定的に違う。

 感情を完全に削ぎ落とした「静寂」の中でしか、あの青い炎は燃えないのだ。

 湊の観察眼が、自分自身の限界というフレームを、正確にデッサンし終える。

 この熱狂のシステムの中にいる限り。

 僕は二度と、あの球を投げられない。

 球質の真髄には、永遠に辿り着けない。

 絶望ではない。

 ただの、物理的な事実だった。

        

 数日後。

 職員室の鬼塚監督の机の上に、一枚の白い紙が置かれていた。

 退部届。

 引き留める言葉すら許さない、極めて事務的で冷たい一枚の決別。


 一条湊は、高校野球という表舞台から、唐突に姿を消した。

 チームに圧倒的な狂気と知略を撒き散らし、旧秩序の絶対王者を破壊したトリックスター。

 彼の痕跡は、跡形もなく消え去った。

 残されたのは。

 ボロボロに凹んだ自宅の庭の壁と。

 陽葵の黒いノートに記された、未完成の数式だけ。


 空は、底なしの深青。

 122キロの青い炎は、泥の中へと、その身を隠した。

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