第78話:究極のセットアップ
第78話:究極のセットアップ
最高の罠は、どのようにして作られるのか。
9回表。
スコアは2-1。聖隷高校が1点をリードしている。
空は、夕闇の茜色から、冷たい深青へと完全に移り変わっていた。
スタジアムの照明が、人工芝の緑を無機質に切り取っている。
一条湊は、マウンドの頂に立った。
彼の右腕は、限界を超え、もはや筋肉の繊維が断裂する寸前の悲鳴を上げている。
テーピングの下、裂けたマメは完全に肉が剥き出しになり、空気に触れるだけでも焼けるような痛みが走った。
だが。
湊の脳内は、異常なほどにクリアだった。
マウンドの土を踏みしめる。
ベンチの奥。結城陽葵が、表紙まで真っ黒に汚れたノートを抱え、小さく頷くのが見えた。
星海大附属の打者のスイング軌道、視線の動き、心理的バイアス。
そのすべてのデータが、黒鉛の数式として彼女の頭脳とノートに刻み込まれている。
(……行くよ、湊くん。最高の座標へ)
佐伯誠二が、ホームベースの奥でサインを出す。
それは、陽葵のデータと佐伯の直感が融合した、星海大を完全に沈黙させるための「究極のセットアップ」。
打席には、星海大の9番打者。
湊は、セットポジションに入った。
激痛を伴う右手の指先。
だが、湊はそれを「苦痛」ではなく、ボールの縫い目を感じ取るための超高精度の「センサー」へと昇華させる。
痛いほどに、回転軸が正確になる。
左足を高く上げる。ティム・リンスカムの跳躍。
ここから、わずか1秒足らずの時間が始まる。
スローモーション。
放たれたのは、80キロの『パラシュートチェンジ』。
打者の目には、ストレートと同じ軌道に見える。
バットが空気を切り裂く。
だが、ボールは打者の手元で、突如として視界から消失する。
真下への急降下。
スカッ。
パァァン!
佐伯のミットが、土煙スレスレの低さで爆音を鳴らした。
空振り三振。
続く1番打者。
佐伯のサインは、再び「下」への変化球を要求している。
湊は、指の掛かりをミリ単位で調整する。
今度は、不規則に揺れながら沈む『バルカンチェンジ』。
スローモーション。
打者は、先ほどのパラシュートチェンジの残像に囚われている。
「ストレートではない、必ず落ちる球が来る」
その意識が、打者の重心をわずかに前傾させ、視線を極限まで「下」へと釘付けにする。
だが、バルカンチェンジは、パラシュートチェンジよりも落下軌道が遅く、そして不規則に揺れる。
打者の脳が、ボールの軌道予測に完全にバグを起こす。
バットが、ボールの遥か上を虚しく通過した。
「ストライク! バッターアウト!」
連続三振。
スタジアムが、異様な熱狂に包まれる。
だが、星海大のベンチは、ただ凍りついていた。
彼らの打線は、湊の「下への変化球」の底なし沼に完全に沈み込んでいた。
速球のタイミングは完全に消去され、意識は「落ちる球」のみに縛り付けられている。
それは、湊と陽葵が共同で作り上げた、極めて精巧で残酷な罠。
ツーアウト。
あと一人。
だが、2番打者が執念でレフト前へ弾き返す。
続く3番打者も、死球で出塁。
ツーアウト、一、二塁。
一打出れば同点、長打が出れば逆転という絶体絶命のピンチ。
そして。
打席に、ゆっくりと巨大な影が歩み寄る。
星海大附属の4番打者へ打順が回る。
いや、違う。
先ほどの打席で、湊の「無言の破壊」によって心をへし折られた怪物。
背番号1、神崎。
スタジアムの空気が、一瞬にして張り詰めた。
マウンドの湊と、打席の神崎。
神崎の目には、押し出しの屈辱に対する、猛烈な復讐の「赤い炎」が宿っていた。
彼は、自らのプライドを懸けて、この1年生投手を粉砕するためだけに打席に立っている。
湊の右腕が、限界の軋みを上げる。
だが、湊の顔には一切の感情がない。
完璧に構築された「究極の罠」が、今、最後の標的を飲み込もうとしていた。




