↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リミッター・ハイ  作者: あめたす


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
79/102

第77話:無言の破壊

第77話:無言の破壊


 天才の心をへし折るのは、圧倒的な力か。

 それとも、底なしの虚無か。


 フルカウント。

 横浜スタジアムは、異様な静寂に包まれていた。

 3ボール、2ストライク。


 バッターボックスに立つ一条湊は、バットを肩に預けたまま、まるで石像のように動かない。

 ユニフォームの白が、西日を浴びて不気味な影を落としている。

 マウンドの神崎の呼吸が、荒くなっていた。

 シューッ。シューッ。

 肺の奥底から空気を絞り出すような、不気味な音。

 それが、18.44メートル離れた湊の耳元で、確かなノイズとして響く。

 神崎の脳内で、プライドが怒りへと変換されていた。

 俺が最強のはずだ。

 俺の155キロで、あの豊田の腕を完全に破壊した。

 それなのに。

 なぜ、このヒョロ高い1年は微動だにしない。

 自分の剛腕が、まるで「存在しない」かのように無視されている。

 その屈辱が、神崎の冷静な思考を完全に焼き尽くそうとしていた。


 湊の目が、すうっと細められる。

 キャンバスに向かう画家の視覚。

 神崎の右肩の筋肉が、極度に収縮しているのをデッサンする。

 力み。

 それは、投手の指先の感覚をミリ単位で狂わせる、最も致死性の高い毒だ。

 神崎の顔が、怒りで赤く染まっている。

 彼は、自らの「絶対的な武」を証明するためだけに、腕を振ろうとしていた。

 神崎が、左足を高く上げる。

 自己最速を更新しようとする、全力のオーバースロー。

 ここから、わずか1秒足らずの時間が始まる。

 スローモーション。

 神崎の右腕が、暴力的に空気を引き裂く。

 放たれた白球。

 バックスクリーンの球速表示が、『156km/h』を無機質に光らせる。

 だが。

 力が入りすぎた指先は、ボールを抑え込むことができなかった。

 白球は、湊の顔面の遥か上空を通過する。

 湊は、ピクリとも動かない。

 まばたきすら、しなかった。

 星海大の捕手が、慌てて立ち上がり、ミットを伸ばす。

 届かない。

 ボールは、キャッチャーの頭上を越え、一直線にバックネットへと向かった。

 ガシャァァァァン!!

 圧倒的な無音の空間を切り裂く、金網が悲鳴を上げる爆音。

 現実のスピードが、一気に戻る。


「ボール! フォアボール!!」


 球審の声が、スタジアムに響き渡った。

 押し出し。

 三塁ランナーの猿渡が、ゆっくりとホームベースを踏む。


 1-1。同点。

 湊は、バットを一度も振ることなく、ただ無言のまま一塁へと歩き出した。

 マウンドの神崎は、呆然と立ち尽くしていた。

 自分の最強の156キロが、バックネットに突き刺さった。

 力でねじ伏せるはずの相手は、戦う姿勢すら見せずにベースを歩いている。

 神崎の足元で、傲慢な自己完結の神殿が、音を立てて崩れ落ちた。

 天才の心が、完全にへし折られた瞬間だった。


「うおおおおおおおおっ!!」


 聖隷ベンチが、爆発的な歓声に揺れる。

 だが、湊の心は氷のように冷たかった。

 感情はない。ただ、盤面の駒を動かしただけだ。


 なおも、ツーアウト満塁。

 打席には、1番・飛鳥斗真。

 神崎は、もう使い物にならなかった。

 焦点の合わない目で、キャッチャーのサインをぼんやりと見つめている。

 心の折れた怪物など、ただの的でしかない。


 初球。

 甘く入った150キロのストレート。

 飛鳥のバットが、それを容赦なく振り抜く。

 カキィィン!

 痛烈な打球が、二遊間を真っ二つに切り裂いた。

 センター前ヒット。

 三塁ランナーの蔵敷が、巨体を揺らしてホームへ滑り込む。


 2-1。

 泥臭い「熱さ」が、ついに試合をひっくり返した。


 スタジアムが、熱狂の渦に巻き込まれる。

 アンツーカーの茶色が、歓喜の土煙で霞む。

 だが、試合はまだ終わっていない。

 星海大附属の最後の攻撃が残っている。

 ベンチに戻った湊は、自分の右手を見つめた。

 テーピングの下で、裂けたマメの傷口が異常な熱を持って脈打っている。

 痛覚が、脳に鋭い警告を送る。

 限界だ。これ以上投げれば、腕の神経が完全に焼き切れる。

 だが。

 湊は、無言のまま氷嚢を外した。


 青い炎。

 恐怖も、怒りも、すべてを焼き尽くした絶対的な冷たさ。

 最後のマウンドが、彼を待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。