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リミッター・ハイ  作者: あめたす


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第76話:死角の座標

第76話:死角の座標


 打たずに勝つことは、敗北よりも残酷か。


 8回裏。聖隷高校の攻撃。

 スコアは1-0。1点を追う絶体絶命の終盤。

 マウンドの神崎は、8回になってもなお、球速表示に『156km/h』を無慈悲に叩き出していた。


 その剛腕は、聖隷打線の心をへし折り、バットを粉砕し続けてきた。

 だが。

 奇跡的なエラーから出塁した猿渡と、執念の死球を選んだ蔵敷。

 ツーアウト一、二塁。

 この試合で初めて、神崎の足元にランナーという名の重圧が置かれた。


「代打――一条」


 鬼塚監督の静かな声が、ベンチの空気を一変させた。


 9番・鳴海の打席。

 ここにきて、投手の湊を代打に送る。

 それは、9回のマウンドを湊に託すという決断と同時に、この打席で絶対に得点を奪うという指揮官の執念だった。


 湊は、ベンチの奥からゆっくりと立ち上がった。

 バットを握る指先には、マメが裂けた激痛が走る。

 物理的に、150キロ後半の剛速球を弾き返す力など、今の湊にはない。

 湊は、左打席に入った。

 アンツーカーの茶色が、西日を浴びて血のように赤い。

 マウンドの神崎が、見下すような冷たい視線を送ってくる。


 (……なんだ、このヒョロい1年は)


 神崎の心の声が、湊の観察眼にははっきりと聞こえた。

 神崎の脳内には、豊田を打ち崩したという圧倒的な自負と、「俺の球を打てる奴などいない」という自己完結のリミッターが強固に張られている。

 湊は、バットを構えた。

 だが、そのグリップは、ただ軽く添えられているだけだった。


 初球。

 神崎の腕が、暴力的に振られる。

 スローモーション。

 155キロのストレート。

 外角低めの、完璧なコース。

 湊は、ピクリとも動かなかった。


「ストライク!」


 球審のコール。

 だが。

 星海大の捕手は、ミットの中でボールを握り直し、小さく首を傾げた。

 マウンドの神崎も、微かな違和感を覚えた。

 湊の目は、ボールを追っていなかった。

 彼は、構えの姿勢のまま、神崎の「左肩の開き」だけをデッサンするように見つめていたのだ。


 (……なぜ、振らない?)


 神崎の脳裏に、ノイズが走る。

 ここまで、聖隷の打者たちは150キロの速球になんとか食らいつこうと、必死でバットを振ってきた。

 だが、この1年は違う。

 まるで、自分の155キロが「存在しない」かのように振る舞っている。


 2球目。

 星海大の捕手が、インコースへのスライダーのサインを出す。

 その瞬間。

 湊は、左打席のバッターボックスのラインぎりぎりまで、スッと右足の踏み込み位置を変えた。

 たった、数センチの移動。

 だが、それは星海大のバッテリーにとって、致命的なエラー信号だった。


 (……読まれている!?)


 ここまでの試合。

 マウンド上の湊が仕掛けてきた、ミリ単位のリリースポイントの変更。

 視界からのボールの消失。

 異常なまでの「ズレ」のコントロール。

 その狂気が、星海大バッテリーの潜在意識に過剰な警戒心を植え付けていた。

 湊がわずかに動いただけで、彼らは「球種を完全に読まれた」と錯覚したのだ。

 神崎の腕に、無意識の力みが生じる。

 放たれたスライダーは、リリースが早すぎた。

 ボールは、ホームベースの遥か手前で土に叩きつけられる。

 ワンバウンド。


「ボール!」


 湊は、やはりバットをピクリとも動かさない。

 ただ、無表情のまま、神崎の重心のブレをデッサンし続けていた。


 3球目。

 神崎の息が、荒くなり始める。

 俺が最強のはずだ。

 なぜ、この1年は俺の球を恐れない。

 なぜ、振らない。

 156キロのストレート。

 高めに大きく外れるボール。


 4球目。

 力み返ったスプリット。

 ワンバウンドで、捕手が後ろに逸らしそうになる。


「ボール! スリーワン!」


 スタジアムが、異様な静寂に包まれていた。

 バットを一切振らない打者と、一人で自滅していく怪物投手。


 (……これでいい)


 湊の右腕は、限界だった。

 だからこそ、彼は「打つ」という物理的行為を完全に放棄した。

 相手の脳内にある「異常な投手・一条湊」という記憶を利用し、過剰な警戒心を誘発させる。

 データと心理の、完全なるハッキング。

 神崎の顔が、怒りと屈辱で赤く染まっていた。

 自分の誇る155キロの剛腕が、ただの「虚無」として扱われている。

 その事実が、天才のプライドを根底からへし折ろうとしていた。

 

 フルカウント。

 神崎は、キャッチャーのサインに首を振った。

 もう、ストレートしか投げない。

 渾身の力で、この1年を粉砕する。

 その傲慢な自己完結こそが、湊の仕掛けた罠の到達点だった。

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