第75話:覚醒のバニッシュボール
第75話:覚醒のバニッシュボール
偶然のエラーを、必然の武器にできるか。
横浜スタジアムのマウンド。
次期エース、鳴海聖の顔から、蒼白な緊張の色が完全に消え去っていた。
彼が今、右手に握っているのは、豊田零司から受け継いだ「重圧」ではない。
一条湊から感染した、新しい「狂気」だった。
打席の星海大の5番打者は、完全に混乱していた。
鳴海は、スラッター(カットボール)を武器とする投手だったはずだ。
横の揺さぶりと、強気なインコース攻め。
それが彼らのデータだった。
だが、今放たれたのは、ストレートの軌道から視界の真下へと消える、異常な縦の変化。
「サインは同じだ。もう一度、いけるな」
黒田が、マスク越しに鋭い視線を送る。
鳴海は、猛獣のように笑って頷いた。
ベンチの湊のジェスチャーが、彼の脳内で明確な言語として再生されている。
(中指の縫い目を外し、手首をロックしたまま振り抜く……!)
セットポジション。
ノーアウト一、二塁のピンチだが、鳴海の眼に恐れはない。
左足を上げ、武闘派らしい力強い腕の振り。
そして、リリースの瞬間。
意図的に作り出された「すっぽ抜け(エラー)」。
人差し指だけがボールの縫い目を強烈に削り取り、強烈な縦のジャイロ回転を生み出す。
ここから、わずか1秒足らずの時間が始まる。
スローモーション。
白球が、打者の胸元へ向かって真っ直ぐに突き進む。
130キロ後半のストレートの軌道。
打者が、それを弾き返そうと力強くバットを振りに出る。
だが、ボールは打者の手元で、突如として重力を思い出したかのように、真下へと急降下した。
バニッシュボール。
それは、視界からボールが「消滅」したかのような錯覚を引き起こす。
銀色のバットが、何もない空間を虚しく薙ぎ払う。
スイングの遠心力で、打者の体勢が前方に大きく崩れる。
パァァァン!!
黒田のミットが、土煙スレスレの低さで爆音を鳴らした。
「ストライク! バッターアウト!!」
スタジアムが、爆発的な歓声に包まれた。
星海大のベンチが、初めて明確な動揺を見せている。
データにない新球。
しかも、極限のピンチの中で、マウンド上で「突然変異」を遂げたという信じ難い事実。
「……完璧です」
ベンチの奥で、湊が小さく呟いた。
隣の陽葵も、真っ黒なノートに新たな回転軸の計算式を書き加えながら、微かに口角を上げている。
「ミスのメカニズム」を言語化し、意図的な武器へと昇華させる。
アナログな観察眼とデータ分析の融合が、聖隷に新たな翼を与えた。
続く6番打者、7番打者。
鳴海は、完全にゾーンに入っていた。
得意のスラッターで横の意識を植え付け、決め球にバニッシュボールを落とす。
視線を上下左右に揺さぶられ、星海大の強打者たちは次々と空振りの山を築いた。
三者連続三振。
豊田が残した絶体絶命のピンチを、鳴海が自らの覚醒によって完全に断ち切ったのだ。
チェンジ。
マウンドを降りる鳴海を、聖隷ベンチが熱狂で迎える。
鳴海は、無邪気な笑顔で仲間たちとハイタッチを交わした。
だが、その輪を抜けると、彼は真っ直ぐに湊の元へ歩み寄った。
「……サンキュな、一条」
鳴海は、自分の右手を湊に向けた。
湊も、テーピングでぐるぐる巻きになった右手を差し出す。
パチン、と。
二人の投手の右手が、短く、強く重なり合った。
旧秩序の崩壊から生まれた、新しい絆。
だが。
その熱狂も長くは続かない。
試合は、1-0で星海大がリードしたまま、終盤の8回へと突入していた。
マウンドには、未だに150キロ台後半を連発する絶対王者・神崎。
聖隷打線は、彼の剛腕の前に、未だにヒット1本すら打てていない。
いくら鳴海が覚醒し、ゼロに抑えようとも、点を取らなければ試合には勝てない。
敗北のタイムリミットが、ジリジリと迫っていた。
「打つ」という物理的な行為が不可能に近い剛腕を前に、聖隷はどう立ち向かうのか。
ベンチの最前列で、鬼塚監督が不敵な笑みを浮かべたまま、そっと動いた。




