第74話:バグの伝染
第74話:バグの伝染
豊田零司が、マウンドを降りた。
夏の太陽に焼き尽くされた横浜スタジアムが、異様な静寂に包まれる。
スコアは1-0。星海大附属が1点を先制。
なおも、ノーアウト一、二塁。
グラウンドに残された聖隷の内野陣は、主を失った石像のように立ち尽くしていた。
ベンチから、背番号18がゆっくりとグラウンドへ向かう。
次期エース、2年生の鳴海聖。
普段はマウンドで猛獣のように振る舞う武闘派だが、今の彼の顔には、明らかな蒼白さが浮かんでいた。
王の死に様を、間近で見すぎたのだ。
鳴海が、豊田の膝の跡が残るマウンドに立つ。
キャッチャーの黒田がサインを出すが、鳴海の呼吸は浅く、速い。
ネクストバッターズサークルには、先ほど豊田を粉砕した神崎が、冷酷な笑みを浮かべて控えている。
プレッシャーが、鳴海の筋肉を物理的に硬直させていた。
「……力んでる」
ベンチの奥。
一条湊は、鳴海の投球練習を冷徹にデッサンしていた。
肩に力が入っている。
腕の振りが、本来の軌道から数センチ外側に膨らんでいる。
あれでは、唯一の武器のスラッターが曲がらない。ただの打ちごろの半速球になる。
プレイボール。
星海大の5番打者がバッターボックスに入る。
鳴海は、大きく息を吸い込み、強引に腕を振った。
だが。
極限の緊張が、致命的なエラーを引き起こした。
リリースの瞬間、ボールの縫い目にかけた中指と人差し指の力が、均等に伝わらない。
指先が、ボールの表面を滑る。
すっぽ抜け。
誰もが、そう直感した。
スローモーション。
指先から離れた白球は、スラッターの軌道を完全に外れ、キャッチャーのミットよりも遥か手前の地面に向かって、一直線に落下を始めた。
暴投。
打者はバットをピタリと止め、黒田が慌てて体を前に投げ出す。
しかし。
ボールは、黒田のプロテクターをかすめることもなく、ホームベースの遥か手前で急激に「消えた」。
いや、消えたのではない。
強烈な縦回転が、ボールを真下へと異常な角度で叩き落としたのだ。
ドスッ。
ボールは、アンツーカーの土に深く突き刺さり、そのまま鈍く転がった。
「……え?」
鳴海自身が、一番間抜けな声を漏らした。
黒田が、泥だらけのマスク越しに目を見開いている。
星海大の打者も、何が起きたのか理解できずに固まっていた。
フォークでも、カーブでもない。
ただ、重力に逆らうことを突然やめたかのような、不気味な落下。
ベンチの湊は、瞬きもせずにその軌道を脳裏に焼き付けていた。
隣で、結城陽葵の鉛筆がカリカリと音を立てる。
「……今の、何?」
「回転軸の異常。完全な縦回転に、わずかなジャイロ成分が混ざってる。縦のスライダーね」
陽葵が、真っ黒なノートを見つめながら呟いた。
「すっぽ抜けた瞬間に、人差し指だけが縫い目に深く引っかかったの。意図して投げられる球じゃない。完全に、物理的な『バグ』よ」
バグ。
その言葉に、湊は自分の右手の裂けたマメを見た。
120キロで強者をねじ伏せるための、狂気の産物。
湊がこの夏、チームの秩序を壊しながら撒き散らしてきた「非常識」と「不規則」。
それが。
王の死という極限のプレッシャーの中で、次期エースの潜在意識に「感染」したのだ。
才能の突然変異。
「……鳴海先輩」
湊は、ベンチの最前列に身を乗り出した。
マウンドの鳴海と、目が合う。
湊は、自らの右手の人差し指と中指を、はっきりと鳴海に見せた。
そして、中指をスッと浮かせ、手首をロックするジェスチャーを作る。
『ミスのメカニズム』の言語化。
先ほどのすっぽ抜けを、もう一度、意図的にやれという指示。
鳴海は、一瞬呆気にとられた顔をしたが。
すぐに、猛獣のような獰猛な笑みを浮かべた。
豊田の背中を追いかけ、武闘派として生きてきた男が。
湊の「狂気」を、自分の血肉として受け入れた瞬間だった。
2球目。
鳴海は、湊のジェスチャー通りに、中指の力を意図的に抜いて腕を振った。
放たれた白球は。
再び、打者の手元で、空気に穴が空いたかのように真下へと消失した。
打者のバットが、虚空を激しく叩く。
パァン。
今度は、黒田のミットがしっかりと爆音を鳴らした。
スタジアムが、どよめきに揺れる。
偶然ではない。
新しい武器の誕生。
絶望の淵で、狂気が伝染し、新たな怪物を生み出したのだった。




