第73話:王の失墜
第73話:王の失墜
王は、どのようにして玉座を降りるべきか。
4回裏。星海大附属の攻撃。
太陽は中天に達し、横浜スタジアムのすり鉢の底を容赦なく炙り出していた。
アンツーカーの茶色が、熱気でぐにゃりと波打つ。
マウンドの頂。豊田零司の顔に、初めて明確な苦痛の影が落ちた。
右肘の靭帯。
骨と骨を繋ぐ繊維が、悲鳴を通り越し、完全に断裂する寸前の軋みを上げている。
汗が顎を伝い、白いユニフォームの胸元に黒い染みを作った。
限界だった。
誰もが、それを悟っていた。
スタジアムを包む熱狂すらも、王の最期を予感して微かに息を潜めている。
星海大附属の打線は、容赦という感情を持たない。
球威の陰り。
コンマ数ミリのリリースポイントのズレ。
それらを、彼らの天性の身体能力が絶対に見逃さなかった。
先頭打者に、右中間を破られる。
続く打者には、強引に三遊間を抜かれた。
ノーアウト一、二塁。
聖隷の内野陣が、豊田の元へ集まろうとする。
だが、豊田はグラブを持った左手を小さく挙げて、それを制した。
「来るな」。
無言の威圧。
誰も、その聖域に踏み込むことは許されない。
ベンチの奥。
一条湊は、キャンバスの崩壊を静かに見つめていた。
王の肉体が、音を立てて崩れていく。
打席には、背番号1。神崎。
プロ注目の剛腕であり、星海大の4番打者。
マウンドの豊田を、神崎が冷たい目で見据える。
かつての豊田の鏡像。
チームを信じず、己の力のみで世界をねじ伏せようとする、傲慢な自己完結の怪物。
豊田は、サインを見た。
黒田のミットは、ど真ん中を要求していた。
小細工はいらない。
王としての最後の意地。
豊田が、左足を高く上げる。
右腕が、鞭のようにしなる。
いや、しなったのではない。肘の関節が破綻し、不自然に腕が遅れて出てきたのだ。
激痛。
だが、豊田は残されたすべての生命力を、その指先に込めた。
ここから、わずか1秒足らずの時間が始まる。
スローモーション。
放たれたのは、150キロの直球。
しかし。
痛みを庇った無意識の反射が、ボールの回転軸を致命的に狂わせていた。
シュート回転。
絶好の、打ちごろのストレート。
神崎の眼が、猛禽類のように見開かれる。
野生のフルスイング。
銀色のバットが、空気を切り裂き、白球の芯を完璧に捉える。
カキィィィン!!
スタジアムの空気を真っ二つに割るような、すさまじい金属音。
打球は、マウンドの豊田の足元へ向かって、一直線に弾き返された。
痛烈なピッチャー返し。
豊田は、咄嗟に右手を差し出した。
グラブではない、素手の右手。
己の玉座を、己の肉体で守り抜こうとする本能。
だが。
ボールの暴力的な質量が、王の右手を無惨に弾き飛ばした。
ボッ。
鈍い音を立てて、豊田の体がマウンドの土に崩れ落ちる。
両膝が、アンツーカーの茶色に深く沈み込んだ。
現実のスピードが、一気に戻る。
白球は、センターの芝生へと無情に転がっていく。
二塁ランナーがホームを踏む。
1-0。
均衡が、ついに破れた。
圧倒的な静寂。
スタジアムの歓声すら、その光景の前に凍りついていた。
豊田は、四つん這いになったまま、マウンドの土をじっと見つめている。
右腕が、力なく垂れ下がっていた。
もう、ボールを握ることはおろか、腕を上げることもできない。
「タイム」
鬼塚監督が、静かに審判に告げた。
投手交代。
王の、完全なる失墜。
黒田や蔵敷がマウンドへ駆け寄ろうとする。
だが、豊田は自らの左手で膝を突き、ゆっくりと立ち上がった。
泥だらけの白いユニフォーム。
彼は、誰の肩も借りなかった。
差し出される手の一切を拒絶し、ただ一人で、ベンチへと歩き出した。
その足取りは重いが、決して揺らいではいない。
ベンチの暗がり。
湊は、帰還する王の背中を見つめていた。
豊田の右腕は完全に死んだ。
聖隷の絶対的なリミッターが、今、完全に解除されたのだ。
しかし、その静寂は。
来るべき甲子園での、さらなる絶望と暴走を予感させるような、不気味なほどの冷たさを孕んでいた。




