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リミッター・ハイ  作者: あめたす


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第72話:王の咆哮

第72話:王の咆哮


 死を覚悟した王は、どれほど美しいか。


 1回裏。星海大附属の攻撃。


 豊田零司が、マウンドの頂に立った。


 頭上には、暴力的なまでの純青。

 足元には、太陽に焼き焦がされたアンツーカーの茶色。

 ユニフォームの白が、蜃気楼の中で揺らめいている。


 打席には、星海大の1番打者。

 豊田は、無表情のままサインを見た。

 右肘の奥で、断裂寸前の靭帯が悲鳴を上げている。

 だが。

 王の顔には、一切の苦痛の色がない。

 絶対的な「冷たさ」。

 彼は、高く左足を上げた。

 美しく、無駄のないオーソドックスなフォーム。

 右腕が、天高く振りかぶられる。

 限界を超えた関節を、圧倒的な意思の力で強制的に連動させる。

 ここから、わずか1秒足らずの時間が始まる。

 スローモーション。

 150キロの直球。

 湊の「青い炎」とは違う、純粋な物理的質量。

 白球が、空間を一直線に引き裂いていく。

 星海大の打者が、その圧力に抗うようにフルスイングに出る。

 だが。

 ボールの重さが、スイングの軌道を力でねじ伏せる。

 木製のバットの芯に白球がめり込む。


 メキッ。

 パァァァァン!!


 静寂を打ち破る、すさまじい爆音。

 黒田一のミットにボールが突き刺さると同時に。

 打者のバットが、無惨に真っ二つにへし折れた。


「ストライク!」


 折れたバットの先端が、土煙を上げてグラウンドを転がる。

 スタジアムが、どよめきに揺れた。

 豊田は、表情一つ変えずに、新しいボールを要求した。

        

 壮絶な投手戦だった。

 神崎の155キロと、豊田の150キロ。

 力と力の、純粋なぶつかり合い。

 星海大の打線は、神崎に劣らぬ怪物揃いだ。


 ザッ。

 ザッ。

 彼らがスパイクで土を噛む音が、地鳴りのように響く。

 だが、豊田は微動だにしない。

 彼の投じる一球一球には、かつての「見下す」ような傲慢さだけでは説明できない、凄絶な熱が宿っていた。

 自らの選手生命を、このマウンドの土に還す。

 その純粋な自己犠牲が、冷徹な王のピッチングに、狂気じみた重みを与えているのだ。


 2回裏。ワンアウト一塁。

 打席には、星海のパワーヒッター。

 黒田が、インコース高めのサインを出す。

 豊田の腕が振られる。

 スローモーション。

 ボールが、打者の胸元へ容赦なく突き進む。

 打者がのけぞりながらも、強引にバットを出す。

 カキィン!

 鈍い音。

 打球は、力なくサードへのファウルフライとなった。

 黒田が、マスクを脱ぎ捨ててキャッチする。

 黒田は、マウンドの豊田にボールを返しながら、短く頷いた。

 「要塞」と呼ばれる冷徹な女房役。

 彼は、豊田の肘の異常に気づいていないはずがない。

 だが、あえて止めることはしない。

 王の死に様を、最後まで正面から受け止める。

 それが、独裁体制を共に築き上げてきた者の、最後の忠誠だった。

        

 しかし。

 ベンチの奥深く。

 マウンドの熱狂から完全に隔離された場所で。

 残酷な真実だけが、静かにデッサンされていた。

 一条湊の眼が、キャンバス上の歪みを捉えるように細められる。

 豊田のフォーム。

 一見すれば、完璧なオーソドックス。

 だが、湊の美術部仕込みの観察眼は、その内側で進行する崩壊をミリ単位で暴き出していた。

 1回裏と、2回裏のフォームの比較。

 左足の踏み込みの歩幅。約3センチの減少。

 骨盤の開き。コンマ1秒の早まり。

 右肘を庇う無意識の動作が、下半身の連動を確実に狂わせている。

 その結果。

 リリースポイントが、1球ごとに、数ミリずつ下がっていた。


「……落ちてます」


 湊は、前を向いたまま低く呟いた。

 隣には、結城陽葵。

 彼女の膝の上では、真っ黒に汚れた大学ノートが開かれている。

 鉛筆の芯が、カリカリと無機質な音を立てていた。


「球速は維持してる。でも、回転軸のブレが許容範囲を超え始めた」


 陽葵の冷たい声が、事実だけを羅列する。


「肘の靭帯がボールの重さを支えきれず、手首の角度が寝てきているの。……あと、1イニング」


 陽葵が弾き出した「限界イニング数」のカウントダウン。

 それは、時計の針のように冷酷に、そして確実に進んでいた。

 湊は、自分の右手を見た。

 テーピングの下で、裂けたマメがドクドクと脈打っている。

 王の肉体が完全に砕け散るまで、自分はただ、このベンチで待つしかない。

 それが、豊田から託された「繋げ」という言葉の、本当の重さだった。


 熱気で歪むグラウンドの向こう。

 豊田は、顔面を汗まみれにしながら、それでも150キロを投げ続けていた。

 美しい。

 破滅に向かって加速していくその姿は、純粋な狂気として、湊の目に焼き付けられていく。

        

 3回裏が終了した。

 両チーム無得点。スコアボードにはゼロが並ぶ。

 壮絶な投手戦のまま、序盤が終えようとしていた。

 マウンドから、豊田がベンチへと帰還する。

 歓声で迎えるチームメイトたち。

 「ナイピッチです!」「次も頼みますよ!」。

 下級生たちの声援に対し、豊田は無言でベンチの奥へ座り込んだ。

 その顔には、相変わらず一切の表情がない。

 浅倉仁衣菜が、タオルと氷嚢を持って近づく。


「……豊田先輩、アイシングを」


「いらん」


 短く、拒絶した。

 豊田は、誰にも自分の右腕を触らせなかった。

 触れられれば、その熱と異常な張りが、チーム全体に絶望を伝染させてしまうからだ。

 ベンチの端。

 湊だけが、豊田の隠された右手の先を見ていた。

 太腿の上に置かれた、王の指先。

 それは、彼自身の圧倒的な意思の力すらも振り切り。

 微かに、だが確実に、痙攣を始めていた。


 限界点リミッターの崩壊は、もう目の前まで迫っていた。

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