第71話:星海の怪物
第71話:星海の怪物
突き抜けるような、暴力的な夏の青空。
横浜スタジアムは、超満員の観衆が発する熱気で、完全に景色が歪んでいた。
グラウンドのアンツーカーの茶色が、太陽に炙られて白く霞む。
神奈川大会、決勝戦。
一塁側ベンチ、聖隷高校。
三塁側ベンチ、星海大附属高校。
プレイボールのサイレンが、スタジアムのすり鉢状の空間に木霊する。
1回表。聖隷の攻撃。
星海大の先発投手が、マウンドの土をスパイクで深く抉った。
背番号1。神崎。
プロ注目の右腕。絶対王者・星海の象徴。
身長188センチの屈強な体躯から放たれる威圧感は、かつての豊田零司のそれと完全に重なっていた。
ザッ。
ザッ。
神崎が投球練習でステップを踏むたび、マウンドの土が重く沈み込む。
一条湊は、ベンチから、その重心の移動を冷徹にデッサンしていた。
右足の蹴り出し。左肩の開き。リリースポイント。
無駄がない。
一切のノイズを削ぎ落とした、純粋な「武」の結晶。
パァァァァン!!
投球練習のラスト一球。
捕手のミットが鳴らした爆音に、スタジアム全体がどよめいた。
バックスクリーンの球速表示が、『155km/h』という数字を無機質に光らせる。
「……バケモノめ」
ベンチの最前列で、黒田一が低く唸った。
豊田という150キロの剛腕の球を3年間受け続けてきた黒田でさえ、神崎の球威には明らかな異次元の質量を感じ取っていた。
神崎の目は、味方のベンチも、守備陣も見ていなかった。
キャッチャーのサインすら、わずかに首を振って自分の投げたい球を選ぶ。
「俺が三振を取れば勝てる」。
圧倒的な自己完結。
それは、湊がこの夏に完全に破壊したはずの、あの「傲慢なリミッター」の究極形だった。
1番打者。飛鳥斗真。
エリア・ゴッドと呼ばれる天才が、バッターボックスに入る。
神崎は、セットポジションから一切の表情を変えずに腕を振った。
スローモーション。
放たれた155キロの直球。
湊の観察眼をもってしても、その球には「ズレ」を生じさせるような物理的な隙が全く見当たらなかった。
完璧な回転軸。重力に逆らう圧倒的なスピン量。
飛鳥のバットが空を切る。
ボールは、スイングの遥か上を通過していた。
「ストライク!」
3球三振。
続く2番、桐生。3番、熊田。
聖隷が誇る上位打線が、神崎の暴力的なスピードと重い球質の前に、手も足も出ずに連続三振に倒れる。
スイングの軌道が、ボールの質量に完全に押し負けているのだ。
圧倒的な力による、一方的な制圧。
星海大のベンチが、王者としての余裕の歓声を上げる。
1回裏。
スコアボードの「0」が、冷たく聖隷ベンチを見下ろしている。
静まり返るベンチの奥で。
エース、豊田零司がゆっくりと立ち上がった。
右肘には、ユニフォームの下に分厚いテーピングが幾重にも巻かれている。
昨夜の大量の痛み止め。
結城陽葵が弾き出した、「限界イニング数は3回」という残酷なデータ。
豊田は、無言のままグラブを手に取った。
王の顔に、かつての傲慢さはない。
あるのは、己の腕を担保にしてでも玉座を守り抜くという、凄絶なまでの覚悟だけだった。
「豊田さん」
マウンドへ向かおうとする豊田の背中に、湊が声をかけた。
豊田は立ち止まるが、振り返らない。
「神崎のフォーム。……完璧に見えますが、踏み込みの左足の爪先が、リリース直前にほんの数ミリだけ開きます。アウトコースのコントロールが、数センチ甘くなるはずです」
「……」
「僕は、ベンチからそのズレを完全にデッサンします。だから」
湊の言葉に、豊田は小さく鼻で笑った。
それは、後輩の理屈を嘲笑うものではない。
互いの狂気を認め合った、共犯者の笑みだった。
「小賢しい理屈だ。……だが、悪くねえ」
豊田は、そのままグラウンドへと歩み出た。
夏の太陽が、王の背中を強烈に照らし出す。
死を覚悟した王の戦いが。
今、静かに幕を開けた。




