第70話:最後の夜、狂気と静寂
第70話:最後の夜、狂気と静寂
グラウンドの土は、夜露を吸って重い茶色へと変色していた。
空は、底なしの深青。
星の光すら、湿った空気に阻まれて見えない。
相模大附属を下し、決勝進出を決めた数時間後。
聖隷高校のグラウンドには、圧倒的な静寂だけが横たわっていた。
一条湊は、誰もいないマウンドの上に立っている。
制服姿のまま、黒いレッドスターのスパイクだけを履いていた。
右腕の前腕は、氷嚢を外してもなお、内側から焼け焦げるような熱を放っている。
裂けたマメの痛覚が、数時間前の2400rpmの軌道を、未だに脳内へ座標として送信し続けていた。
狂気を孕んだ、青い炎の余韻。
ザッ。
ザッ。
不意に、暗闇の奥から規則正しい足音が響いた。
清稜の機動力でも、川崎第一の野性味でもない。
重く、揺るぎない、王の足音。
水銀灯の冷たい光の中に、豊田零司が姿を現した。
彼は、マウンドの湊を見上げるようにして立ち止まった。
その背後。ベンチの暗がりに、もう一つの小さな人影があった。
結城陽葵。
彼女の腕には、表紙まで黒鉛で汚れきった大学ノートが抱えられている。
「……明日の相手は、星海大附属だ」
豊田の低い声が、夜の空気を震わせた。
「マウンドには、神崎がいる。プロ注目の155キロの剛腕。チームの知略も守備も信じず、俺がいれば勝てると本気で思っている、自己完結の怪物だ」
それは、かつての豊田自身の鏡像だった。
150キロの力で、すべてをねじ伏せてきた独裁者。
その完成形とも言える存在が、決勝の舞台で待ち構えている。
「一条。お前が壊した俺の『正しさ』の亡霊が、明日のマウンドに立つ」
豊田は、自身の右肘を左手でそっと覆った。
制服のシャツの上からでも分かるほど、その関節は不自然に熱を持ち、微かに痙攣している。
「明日は、俺が先発する」
宣告だった。
マウンドの上の湊に突きつけられた、王の最後の勅命。
その声には、圧倒的な冷たさと、微かな死の匂いが混じっていた。
湊の美術部仕込みの観察眼は、暗闇の中でも豊田の身体の歪みを正確にデッサンしていた。
右肩の不自然な下がり。
骨盤の開きを庇うような立ち姿。
陽葵が言っていた通りだ。
内側側副靭帯の損傷。
すでに限界を超えている。明日、あの150キロの腕を振れば。
豊田の右腕は、完全に崩壊するだろう。
すべてを破壊した先に、何が残るのか。
湊は、止めるべきだった。
「あなたの腕はもう限界です」と、論理的な事実を突きつけるべきだった。
だが。
湊の喉から、声は出なかった。
痛みを薬で殺し、己の選手生命を担保にしてでも、マウンドに立つ。
それが、王の選んだ「死に場所」だった。
その玉座から彼を引きずり降ろすことは、彼のこれまでの人生を殺すことよりも残酷なのだ。
ベンチの暗がりから、陽葵がゆっくりと歩み出た。
彼女は、黒鉛で真っ黒になったノートを開いた。
そこに感情は一切ない。
ただ、冷徹な数字の羅列だけが、白いページを侵食している。
「星海大のデータは、すべて私の頭とこのノートに入っています。そして、神崎の155キロを打ち崩すための、聖隷打線のスイング軌道と確率も」
陽葵は、折れた鉛筆の先で、ノートの一点を強く突いた。
「豊田先輩の今の肘の状態から計算される、球威の減衰率。……神崎と互角に投げ合える限界のイニング数」
夜風が、ノートのページを乾いた音でめくる。
「3回。豊田先輩が、3回持てば。その間に神崎の球筋を視覚に焼き付け、湊くんの『ズレ』を仕掛ける土台が完成します。勝機は、あります」
それは、あまりにも非情な宣告だった。
チームの絶対的エースを、「3イニング限定の捨て駒」として計算式に組み込む。
勝利のために、王の肉体を完全に消費するというデータ。
だが。
豊田は、その言葉を聞いて、初めて微かに笑った。
傲慢な独裁者の笑みではない。
己の役割を理解し、すべてを受け入れた戦士の、静かな笑みだった。
「3回、か。……上等だ」
豊田は、踵を返した。
重い足音が、再び夜の闇へと溶けていく。
ベンチへ戻る王の背中を、湊と陽葵は黙って見送った。
誰もいないグラウンド。
土の匂い。
空の黒。
明日のマウンドで、豊田は確実に腕を壊す。
そして湊は、その王の屍を越えて、限界を超えた右腕でさらにバグを撒き散らす。
旧秩序は崩壊した。
残されたのは、ただ勝利という一つの目的のために、互いの肉体と論理を削り合う狂気の集団。
湊は、自らの右手を見つめた。
裂けたマメの痛みが、静かに、しかし確かな温度で脈打っている。
122キロの青い炎。
それが明日の横浜スタジアムで、絶対王者・星海大附属のシステムを焼き尽くす。
静かな夜だった。
死闘を明日に控え、それぞれの炎が、圧倒的な静寂の中で音もなく燃え盛っていた。




