第79話:青い炎の極致
第79話:青い炎の極致
感情を殺した時、人間は何者になるのか。
横浜スタジアムの夜空は、重く冷たい深青に染まっていた。
水銀灯が、人工芝の緑を無機質に切り取る。
9回裏。
スコアは2-1。聖隷高校の1点リード。
ツーアウト、一、二塁。
一打出れば逆転サヨナラという、絶体絶命の盤面。
打席には、星海大附属の絶対的エースであり4番、背番号1の神崎。
マウンドには、1年生の一条湊。
神崎の目は、怒りと屈辱で真っ赤に血走っていた。
先ほどの打席。湊のバットを振らないという「虚無」の圧力の前に、自滅の押し出し四球を与えた屈辱。
その猛烈な「赤い炎」が、神崎の理性を完全に焼き尽くそうとしていた。
力で、力のみで、目の前のヒョロ高い1年生を粉砕する。
かつての豊田零司が陥った、暴力的な自己完結の檻。
ザッ。
ザッ。
神崎がスパイクで打席のアンツーカーを乱暴に削る。
土の匂い。
荒い呼吸。
そのノイズが、18.44メートル離れた湊の耳元で鳴る。
だが、湊の視界にはもう、神崎の放つ「熱」も「殺気」も届いていなかった。
ただ、氷のように透き通った青の空間だけが広がっている。
湊の前腕が、ミシミシと限界の軋みを上げた。
筋肉の繊維が、悲鳴を通り越して断裂のカウントダウンを始めている。
テーピングの下、裂けたマメからは赤い肉が剥き出しになっている。
だが、湊はかつて父に向けたような「怒り」を、すでに完全に捨て去っていた。
痛みも、焦りも、恐怖もない。
一切の感情を排した「青い炎(冷徹な意思)」が、彼の肉体を機械のように完全に統制している。
佐伯誠二が、ホームベースの奥でミットを構えた。
初球のサイン。インコース高めのストレート。
湊は、セットポジションに入った。
剥き出しの肉に、ボールの縫い目が容赦なく食い込む。
激痛。
だが、その痛覚こそが、回転軸をミリ単位で調整する超高精度のセンサーだ。
左足を高く上げる。
腕が振られる。
放たれた122キロの直球。2400rpm。
スローモーション。
白球が、神崎の胸元へ向かって真っ直ぐに突き進む。
神崎は、全身の筋力を爆発させてフルスイングに出た。
155キロを投げる男の、暴力的なスイングスピード。
122キロの球など、簡単にスタンドへ運べるはずだった。
だが。
神崎の脳が予測した軌道よりも、ボールは落下せず、重力を拒絶してホップした。
銀色のバットの芯から、ボール半個分、軌道がずれる。
ガッ!
鈍い衝撃音が、スタジアムに響いた。
力負け。
打球は、バックネットへ一直線に突き刺さるファウル。
「……なっ」
神崎の顔に、明確な驚愕が浮かんだ。
遅い。圧倒的に遅いのに、なぜボールが「重い」のか。
なぜ、弾き返せないのか。
155キロの剛腕を持つ天才の直感が、湊の122キロの理不尽な物理法則の前に狂わされ始める。
2球目。
佐伯のサインは、アウトコース低めのバルカンチェンジ。
湊は、指の掛かりを変える。
痛覚の座標をずらす。
腕を振る。
放たれたボールは、ストレートと同じ軌道を描きながら、打者の手元で不規則に揺れ、沈む。
神崎は、前の球のホップする残像に囚われながらも、バットを止めにかかる。
極限の反射神経。
バットのヘッドが、かろうじて止まった。
「ボール!」
カウント、ワンボール・ワンストライク。
神崎の額から、冷たい汗が流れ落ちた。
赤い炎の中に、明確な疑心暗鬼が混じり始める。
ストレートは浮く。変化球は不規則に沈む。
視界が、上下に激しく揺さぶられる。
ベンチの奥。
結城陽葵が、表紙まで真っ黒に汚れたノートを見つめている。
彼女の冷徹な計算式が、神崎の心理的バイアスを完全に数値化していた。
(……神崎の意識は、すでに「下」へ引っ張られている。次は、落とす)
3球目。
佐伯のサイン。パラシュートチェンジ。
湊は、薬指と小指をボールの縫い目にかける。
縫い目の感触。痛みの強さ。
完璧な摩擦係数。
跳躍。
スローモーション。
放たれた80キロの毒。
神崎の眼が、ボールの軌道を追う。
ストレートか。いや、沈む。
神崎の脳が、ボールを捉えたと錯覚し、バットを振り下ろす。
だが、パラシュートチェンジは、空気に穴が空いたかのように、真下へと急降下した。
スカッ。
パァァァン!!
土煙スレスレで、佐伯のミットが乾いた爆音を鳴らす。
「ストライク!!」
神崎の体勢が、大きく前に崩れた。
膝がグラウンドに付きそうになるほどの、無惨な空振り。
カウント、1ボール2ストライク。
聖隷が、絶対王者を完全に追い詰めた。
スタジアムが、割れんばかりの大歓声に包まれる。
王の敗北を予感する、残酷な熱狂。
だが、マウンドの湊は、歓声など全く聞こえていないかのように、無表情のままロージンバッグを手に取った。
白い粉が、夜風に舞う。
湊の目が、すうっと細められる。
キャンバスに向かう画家の視覚。
神崎の重心。右足の踵への体重。肩の入り方。
それらが、脳内のキャンバスに完璧な線として描き出される。
(……神崎の脳内は、完全に『下』の軌道に縛られた)
強打者ゆえの、反射神経の呪縛。
落ちる球への恐怖が、神崎の姿勢を明確な「変化球待ち」の前傾姿勢へと歪めていた。
速球のタイミングは、彼の脳内から完全に消去されている。
すべては、整った。
佐伯が、最後のサインを出す。
湊は、セットポジションに入った。
肉体のリミッターは、とうの昔に壊れている。
右腕は、次の1球で本当に砕け散るかもしれない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
ただ、この1球を完璧な座標に突き刺す。
その純粋な意思だけが、青い炎となって湊を突き動かしている。
左足を、高く上げる。
ティム・リンスカムの跳躍。
スタジアムの時間が、永遠のように引き伸ばされる。
すべてが、無音になる。
湊は空中で。
腕を振り下ろすタイミングを、あえて「コンマ数秒」だけ意図的に遅らせた。
ほんのわずかな、ミリ単位のリズムのズレ。
神崎の体が、変化球を捉えようとわずかに前に突っ込む。
その瞬間。
湊の右腕が、爆発的なスピードで振り下ろされた。
勝負の行方を決める、最後の1秒足らずの永遠が、今、放たれようとしていた。




