第68話:痛覚というセンサー
第68話:痛覚というセンサー
空は、重く濁った茜色から、夜の深青へと沈みかけていた。
スタジアムを包む照明の光が、人工芝の緑を人工的に白く浮かび上がらせる。
9回裏。
スコアは2-1。聖隷の1点リード。
三塁側ブルペン。
熱気と土埃の匂いが立ち込める中、一条湊はパイプ椅子に深く腰掛けていた。
右腕の前腕が、焼け焦げるような異常な熱を放っている。
人差し指と中指の間の、裂けたマメ。
新しいテーピングの下で、再びドクドクと血が脈打つのが分かった。
肉体の限界を知らせる痛みを、人は無視できるのか。
「……力、抜いて」
浅倉仁衣菜の声が、震えていた。
彼女は、湊の右腕を自分の膝に乗せ、氷嚢を強く押し当てている。
氷の鋭い冷たさが、炎症を起こした筋肉を刺す。
だが、それ以上に。
湊の腕を握る仁衣菜の手のひらが、異常なほどに熱かった。
「……湊」
仁衣菜が、うつむいたまま口を開く。
ショートカットの髪の隙間から、グラウンドの土で汚れた顔が見えた。
「痛いなら、痛いって言いなさいよ」
ぽつり、と。
透明な水滴が、湊の白いユニフォームの膝に落ちた。
「あんたの筋肉、岩みたいに硬くなってる。こんなの、もう野球やってる人間の腕じゃない。ただの壊れた機械よ……」
涙声だった。
ツンデレな態度の裏に隠しきれなくなった、純粋な恐怖。
湊の狂気的な執着が、ついに彼自身の肉体を完全に破壊しようとしている。
仁衣菜の熱い優しさが、湊の「冷たい」論理を止めようと必死に縋り付いていた。
「……仁衣菜」
湊は、静かに口を開いた。
「痛いよ。すごく」
仁衣菜が、ビクッと肩を震わせた。
湊が、自分の痛みを素直に口にしたのは、これが初めてだった。
「指先の皮が裂けて、そこに硬い縫い目が食い込む。腕を振るたびに、神経にヤスリをかけられてるみたいだ。……でもね」
湊は、氷嚢を当てられた自分の右腕を、まるで他人の持ち物であるかのように冷徹な目で見下ろした。
「この痛みがなければ、僕はもう、あの球を投げられないんだ」
豊田零司の「冷たさ」。
蔵敷たちの「熱さ」。
そして今、湊の心に宿っているのは、そのどちらでもない。
静寂。
圧倒的な、無音の炎。
湊は、痛みを「苦痛」という感情として処理することを、完全に放棄していた。
美術部で培ったデッサン力。
それを、自分の肉体の内部へと向ける。
痛覚を、ただの「数値」として脳内で処理する。
縫い目がマメに食い込む角度。
ミリ単位の摩擦係数。
痛みが強ければ強いほど、指がボールに深くかかっているという証拠だ。
痛みを、座標にする。
肉体の悲鳴を、リリースポイントを完璧に制御するための「超高精度のセンサー」へとハッキングする。
(……僕は、僕自身を最高傑作に改造する)
それは、マッドサイエンティストのような、狂気に満ちた自己客観視だった。
かつて、子供の頃に夢中になったミニ四駆。
ボディを限界まで削り落とし、不格好な別のパーツを無理やり接着して、最速のマシンを創り上げたあの夜。
今の湊の肉体は、まさにその「改造機」だった。
「アイシング、もういいよ」
湊は、仁衣菜の手から静かに氷嚢を外した。
冷やされ、白く血の気を失った右腕。
だが、すぐにまた、内側から暴力的な熱が蘇ってくる。
「……死なないでよ」
仁衣菜が、絞り出すように言った。
「死なない。絶対に抑える」
湊は立ち上がった。
深く被った帽子のツバ。
オールドスタイルのストッキング。
黒いレッドスターのスパイク。
ブルペンの扉を開ける。
夜のスタジアムの空気が、一気に肺に流れ込んできた。
グラウンドの土を踏む。
ザッ。
その瞬間。
横浜スタジアムを包んでいた大歓声が。
相模大附属のベンチから放たれる、地鳴りのようなプレッシャーが。
湊の耳から、完全に消え去った。
無音。
視界が、極彩色から、透き通るような深い青へと変わっていく。
マウンドには、佐伯誠二が待っている。
ベンチでは、エースの豊田が腕を組んでこちらを見ている。
陽葵が、真っ黒になったノートを抱きしめている。
感情はない。
恐怖もない。
あるのは、ただ「ミットを射抜く」という純粋な意思だけ。
投手の指先からボールが離れる瞬間から、打者がスイングし終えるまでの、わずか1秒足らずの永遠。
その空間を完全に支配するための。
一条湊の「122キロの青い炎」が、今、最後のマウンドへと上がり、静かに、しかし絶対的な温度で燃え上がった。




