第67話:泥にまみれた武
第67話:泥にまみれた武
横浜スタジアムの土が、西日を浴びて焦げたような匂いを放っている。
8回裏。相模大附属の攻撃。
スコアは2-1。聖隷の1点リード。
しかし、ワンアウト満塁という絶体絶命のピンチ。
ブルペンでは、一条湊が肩を作っていた。
右手の裂けたマメに、容赦なくボールの縫い目が食い込む。
激痛。だが、湊の脳は異常なほどクリアだった。
彼は、いつでもマウンドへ行く準備ができている。
だが。
鬼塚監督は、交代を告げなかった。
マウンドには、4番手の不動広人が残されている。
無表情のクローザー。大魔神のような風貌の彼は、今、額から滝のような汗を流し、肩で息をしていた。
相模大の打線が放つ強烈なプレッシャーが、彼のフォークボールの精度を確実に奪い始めている。
「湊くんの登板は、9回の1イニングのみ。これが、データが弾き出した湊くんの右腕の『完全崩壊』を免れるギリギリのライン」
ベンチ裏で、結城陽葵が折れた鉛筆を握り締めながら呟いた。
だから、この8回のピンチは、不動が……いや、グラウンドに立つ野手陣が、意地でも守り切らなければならない。
打席には、相模大の5番打者。
豪快なスイングを信条とする、パワーの権化。
不動が、サインに頷く。
セットポジションから、渾身のフォークボール。
だが。
指先にかかった疲労が、ボールの落差を奪った。
高めに浮いた、半端な変化球。
打者の目が、獰猛に光った。
カキィィィン!!
すさまじい金属音。
打球は、三遊間を痛烈なグラウンダーで襲った。
抜ければ、逆転の2点タイムリー。
聖隷の「絶対的武」であった豊田零司がいない今、この打球を力でねじ伏せる術はない。
だが。
その土煙の中に、黒い影が飛び込んだ。
ショート、猿渡勇。
普段は冷静沈着で、湊に地味な反復練習を強いてきた男。
彼が今、顔面から泥に突っ込みながら、グラブをいっぱいに伸ばしていた。
パシッ!
土煙の中で、ボールがグラブの網に収まる。
しかし、打球の勢いは殺しきれない。
猿渡の体ごと、外野の芝生へと弾き飛ばされそうになる。
「うおおおおおっ!」
猿渡は、泥だらけの顔を歪めながら、無理な体勢から二塁へとボールをトスした。
そこに、カバーに入っていたセカンドの清田が滑り込む。
アウト。ツーアウト。
だが、三塁ランナーはホームへと向かっている。
清田は、膝をついたまま、一塁へと矢のような送球を放った。
一塁には。
巨漢、蔵敷徹。
精神論の塊であり、「そんな悩みは筋トレで上書きしろ」と豪快に笑い飛ばしてきた男。
相模大の打者が、一塁ベースへ猛烈なヘッドスライディングを見せる。
清田からの送球が、わずかに逸れた。
ショートバウンド。
普通のファーストなら、後ろにそらしてしまう軌道。
「……なめるなァ!!」
蔵敷が、吠えた。
彼は、逃げなかった。
巨体を二つに折り曲げ、顔面スレスレでバウンドしたボールの前に、自らの胸を差し出したのだ。
ドスッ。
鈍い音が、グラウンドに響いた。
ボールが、蔵敷の胸に激突する。
そのまま、泥の海に沈み込む蔵敷の体。
土煙が晴れる。
蔵敷は、泥だらけの顔で、右手でしっかりとボールを握りしめていた。
一塁ベースを踏んだ足は、微動だにしていない。
「アウトォ!!」
一塁塁審の右手が、天を突いた。
スリーアウト、チェンジ。
同点のピンチを、泥と執念の気迫で守り抜いた。
スタジアムが、割れんばかりの歓声に揺れた。
マウンドの不動が、大きく息を吐き出し、膝に手をつく。
蔵敷は、泥だらけのユニフォームを払うこともせず、猿渡や清田と強くグラブを合わせている。
ベンチの奥。
エースの豊田零司が、その光景を静かに見つめていた。
豊田が築き上げてきた、150キロの剛腕で敵を完全に粉砕する「冷たい武」。
それとは全く違う。
泥にまみれ、顔面でボールを受け止め、這いつくばってアウトをもぎ取る「熱い武」。
王を欠いた聖隷の選手たちは、絶望しなかった。
豊田という絶対的な傘がなくなったことで、彼らの中に眠っていた「意地」が、泥臭く発露したのだ。
「……見ろよ」
ブルペンで、佐伯誠二がマスク越しに呟いた。
湊も、グラウンドから戻ってくる先輩たちの泥だらけの姿を見つめていた。
「あの3年生たちが、あんな顔で野球やってるの、初めて見たぜ」
佐伯の言う通りだった。
黒田や清田、蔵敷。
彼らの顔には、豊田のワンマンチーム時代に見せていた「冷徹な義務感」はない。
自分たち自身の力で、強豪校に喰らいついているという、野生の熱があった。
「湊」
ベンチに戻ってきた蔵敷が、泥だらけの大きな手で、湊の肩を強く叩いた。
「あとは、頼んだぞ」
その言葉には、かつての「下級生を見下す」響きは微塵もなかった。
共に泥にまみれて戦う、一人の「投手」への信頼。
湊は、深く頷いた。
右腕の氷嚢を、完全に外す。
前腕の筋肉が、脈打つように異常な熱を放っている。
9回裏。
スコアは2-1のまま。
いよいよ。
一条湊の「122キロの青い炎」が、最後のマウンドへと向かおうとしていた。




