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リミッター・ハイ  作者: あめたす


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第66話:極彩色のパレット

第66話:極彩色のパレット


 突き抜けるような青空。

 横浜スタジアムは、異様なざわめきに包まれていた。

 準決勝。対戦相手は、強打を誇る相模大附属。

 観客席の誰もが、あの150キロの剛腕を待っていた。

 だが。

 ウグイス嬢の冷たい声が、スタジアムの空気を凍りつかせた。


『先発は、望月くん』


 聖隷高校のエース、豊田零司の名は呼ばれなかった。

 「温存か?」。スタンドから疑問の声が漏れる。


 マウンドに登ったのは、背番号17。

 左のアンダースロー、望月瞬。

 土の茶色に沈み込むような、極端に低い姿勢。

 豊田が築き上げてきた、見下ろすような「絶対的な武」の神殿。

 その留守を預かるのは、球速わずか100キロの、飄々とした2年生だった。

 王のいないマウンド。

 それは、聖隷の絶対的秩序の崩壊を意味していた。

 だが。

 三塁側ベンチの奥。

 一条湊は、氷嚢を当てた右腕を抱えながら、静かにグラウンドを見つめている。

 王が不在ならば。

 泥にまみれた極彩色のパレットで、この空を塗り潰すしかない。


 1回裏。相模大附属の攻撃。

 1番打者がバッターボックスに入る。

 豪快なスイングを信条とする、パワー型の打線。

 望月は、マウンドの土をゆっくりと均した。

 そして、地を這うようなフォームから、力みなく左腕を振る。

 

 ここから、わずか1秒足らずの時間が始まる。

 スローモーション。

 白球は、地面スレスレから浮き上がるように放たれる。

 遅い。

 圧倒的に遅い。

 相模大の打者の脳が、その速度を処理しきれない。

 豊田の150キロを想定していた直感が、100キロの遅球に完全にバグを起こす。

 待てない。

 体勢が前に突っ込む。


 パァン。

 乾いた、力のないミットの音。

 打者のバットは、ボールの遥か手前で空を切っていた。

 ストライク。


「……遅すぎる。止まって見えるぜ」


 ベンチで、大島が呆れたように呟く。

 望月の投球は、速さという概念を根底から否定していた。

 ストレート、カーブ、シンカー。

 すべてが100キロ前後。

 相模大の強打者たちは、その圧倒的な「遅さ」の沼に沈み、凡打の山を築いていく。

 内野ゴロ。力のないフライ。

 スコアボードには、ゼロが刻まれていく。

 だが。

 「遅さ」という毒は、長くは持たない。


 3回裏。打順が2巡目に入る。

 相模大の打者たちの目に、徐々にアジャストの色が浮かび始めた。

 青いヘルメットの奥の瞳。

 タイミングを、合わせにきている。

 直感ではなく、理論で遅球を捉えようとする「青」の思考。

 カキィン。

 先頭打者に、センター前へ綺麗に弾き返された。

 続く打者にも、レフト線へ運ばれる。

 ノーアウト一、二塁。

 沼の底が見えた瞬間だった。


「……監督」


 ベンチの湊が、動いた。

 湊の目は、キャンバスを見つめる画家のそれだった。

 相模大の打者の、重心の移動。

 右足の踏み込み。肩の開き。

 それらをデッサンし、陽葵のノートの計算式と照らし合わせる。

 陽葵の真っ黒に汚れた手首が、新たな直線を引いていた。


「タイミングのズレ幅が、コンマ2秒縮まっています」


 湊が、鬼塚監督の横に立ち、淡々と告げた。


「彼らの脳は、もう100キロの遅さに順応しました。これ以上は、捕まります」


 鬼塚は、腕を組んだまま、ニヤリと笑った。


「なら、どうする」


「目を、覚まさせます。次は、風間先輩で」


 ピッチャー交代。

 マウンドには、右サイドスローの風間誠が上がった。

 相模大の打線は、まだ「遅さ」の残像に囚われている。

 風間は、セットポジションから、完全に脱力した状態を作る。

 無音。

 静寂。

 そして、リリースの瞬間だけ、爆発的に力を込める。

 無音のリリース。

 スローモーション。

 球速は130キロ。

 決して速くはない。

 だが、100キロの遅球を見せられた後の、脱力からの130キロ。

 それは、体感で150キロを超える暴力的な錯覚を生み出す。

 相模大の打者が、慌ててバットを出す。

 振り遅れ。

 カキッ。

 鈍い音とともに、打球は力なくセカンドへの併殺打となった。

 ツーアウト。


「次は、筧先輩のカーブです。縦の視線を切ります」


 湊のデッサンと、陽葵の黒鉛。

 それが、聖隷の異端の才能たちを、完璧なタイミングでマウンドへ送り出していく。

 左の筧が投じる、大きな虹色のカーブ。

 再び、相模大の打線のタイミングがズタズタに引き裂かれた。

 望月の遅球。

 風間の無音の直球。

 筧の虹色のカーブ。

 それぞれは、決して絶対的な武器ではない。

 だが、それらを緻密に計算し、繋ぎ合わせることで。

 濁った絵の具が、相模大の視界を完全に真っ黒に塗り潰していった。


「……小賢しい野球だ」


  マスクを被った黒田一が、忌々しそうに吐き捨てた。

 豊田の150キロで、力と力でねじ伏せてきた3年生のプライド。

 今の聖隷の野球は、それを真っ向から否定している。

 だが。

 スコアボードには、確実に「0」が並び続けていた。

 王の不在を、寄せ集めのパレットが完璧に埋めている。

 いや、埋めているのではない。

 新しい秩序を、泥と黒鉛で描き出しているのだ。


 7回終了。

 スコアは2-1。

 聖隷が、薄氷のリードを保っていた。

 だが、絵の具は無限ではない。

 継投のタイミングは、少しずつ狂い始めていた。

 相模大の打線が、パレットの底を削り取ろうと、執念を見せ始める。


 8回裏。

 マウンドには、4番手の不動広人。

 ワンアウト満塁。

 一打逆転の、絶体絶命のピンチ。

 相模大のベンチから、地鳴りのような歓声が響く。


「……湊くん」


 陽葵が、ノートから顔を上げた。

 鉛筆の芯が、根元まで折れていた。

 計算式が、尽きた。

 これ以上の継投の組み合わせは、存在しない。

 パレットの絵の具が、完全に枯渇した。

 湊は、静かに立ち上がった。

 右腕の氷嚢を外す。

 熱を持った前腕。裂けたマメ。

 激痛が、脳をクリアに研ぎ澄ます。

 王のいない神殿。

 その最後の扉を閉めるのは、自分しかいない。

 泥にまみれた122キロの炎が、今、ブルペンからマウンドへと向かおうとしていた。

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