第65話:崩壊する神殿
第65話:崩壊する神殿
準決勝を明日に控えた夜。
聖隷高校の部室棟は、勝利の余韻というよりは、嵐の前の重い静寂に包まれていた。
グラウンドには誰もいない。
水銀灯の冷たい光だけが、誰もいないマウンドを無機質に照らしている。
一条湊は、部室の裏手にある水道場で、泥だらけのスパイク「レッドスター」を洗っていた。
右手の痙攣は治まったものの、裂けたマメの周囲は赤黒く腫れ上がり、指を曲げるだけで鈍い痛みが走る。
だが、その痛みすらも、彼にとっては明日戦うための「武器の点検」に過ぎなかった。
蛇口をひねり、水を止める。
静けさの中で、ふと、部室の方から微かな物音が聞こえた。
プラスチックの容器が触れ合うような、乾いた音。
湊は、濡れた手をジャージで拭いながら、部室の半開きになった扉へと近づいた。
隙間から漏れる、蛍光灯の白い光。
その中に、巨大な背中があった。
エース、豊田零司。
彼は、パイプ椅子に深く腰掛け、一人でうつむいていた。
その手には、見慣れない白いプラスチックの小瓶が握られている。
(……痛み止め?)
湊の観察眼が、瞬時にその状況をデッサンする。
豊田は、小瓶から白い錠剤を数錠手のひらに出し、水も飲まずにそのまま喉の奥へ放り込んだ。
ゴクリ、と喉仏が動く。
その時、豊田の右腕が、微かに震えた。
ただの震えではない。
神経の断線から来るような、意思とは無関係な痙攣。
豊田は、その痙攣を隠すように、左手で自らの右肘を強く、血が滲むほどに握りしめた。
「……くそっ」
王の口から漏れた、痛みに耐えかねたような呻き。
それは、マウンドで150キロを投じる「絶対的な武」の象徴からは想像もつかない、脆く、惨めな響きだった。
湊は、扉の隙間からその光景をただ見つめていた。
声は、かけられなかった。
かけてはいけない気がした。
豊田の肘の奥で、彼の選手生命そのものを食い破る致命的な崩壊が進行している。
それは、湊の「バグ」がチームの秩序を壊したせいなのか。
それとも、王としての責務が彼を自壊へと導いたのか。
「……見ちゃダメ」
背後から、不意に腕を引かれた。
振り返ると、結城陽葵が立っていた。
彼女の膝には、いつもの真っ黒になったノートではなく、何枚かのレントゲン写真のコピーが挟まれたクリアファイルが抱えられている。
陽葵の目は、氷のように冷たかった。
「……陽葵さん、あれは」
「右肘の内側側副靭帯の損傷。たぶん、もう限界の少し先まで行ってる」
陽葵は、感情を一切交えずに、ただの事実として告げた。
「知ってたんですか」
「データは嘘をつかないから。球の回転軸のブレ。リリースポイントのわずかな下がり。豊田先輩の肘は、もう完全に壊れてる」
陽葵は、部室の扉から視線を外し、夜空を見上げた。
「甲子園のために、痛みを隠蔽してるのよ。自分の腕を担保にしてでも、マウンドを守り抜くために」
それは、湊自身がやっていることと何ら変わりない。
「痛覚をセンサーにする」という狂気と、「痛みを薬で殺す」という狂気。
聖隷という神殿は、今、その両極端な狂気によって、ギリギリのバランスで成り立っているのだ。
「明日、豊田先輩は投げられない」
「……」
「準決勝の相模大附属戦。豊田先輩は『決勝のための温存』という名目で、登板を回避する。監督も、薄々感づいてるはず」
陽葵は、冷酷なまでに論理的な結論を突きつけた。
「王のいないマウンドを、誰が守るの?」
湊は、自分の右手を見つめた。
裂けたマメ。異常に熱を持った前腕。
この腕で、あと何球投げられるのか。
いや、投げるしかないのだ。
豊田が「繋げ」と言った。その想いを、ここで途絶えさせるわけにはいかない。
「……僕が投げます」
「無理よ」
陽葵は、即座に否定した。
「湊くんの右腕も、限界を超えてる。今の状態で投げれば、本当に神経がイカれるわ」
「でも……!」
「だからこそ。明日は、『個性的な選手』たちの出番なのよ」
陽葵の言葉に、湊はハッとした。
聖隷高校には、まだいる。
豊田という巨大な太陽の陰に隠れ、3年生の秩序の中でくすぶっていた、異端の才能たちが。
無音のリリースを持つ風間。
球速100キロのアンダー、望月。
虹色のカーブを操る左腕、筧。
「豊田先輩の150キロがないなら。彼らの異端のパレットで、相模大の打線を完全に濁らせる」
陽葵の目に、再びあの黒鉛のような狂気が宿った。
聖隷の神殿が崩壊する音は、もう誰にも止められない。
だが、その瓦礫の中から、最も歪で、最も恐ろしい「総力戦」という名の怪物が生まれようとしていた。




