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リミッター・ハイ  作者: あめたす


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第64話:……繋げ

第64話:……繋げ


 9回表。

 横浜スタジアムの空が、刺すような青から、重く濁った茜色へと沈み始めていた。

 マウンドの土が、西日を浴びて黒く長い影を落とす。


 一条湊の右腕は、すでに限界をとうに超えていた。

 痛覚をセンサーにする。

 その狂気的な投球術は、脳のストッパーを強制的に解除する代償として、肉体を猛烈なスピードで食い破っていた。

 指先の裂けたマメは、もはや痛みを通り越し、感覚そのものが欠落し始めている。

 ボールの牛革の縫い目が、指に引っかからない。

 息が、泥のように重い。

 ユニフォームの白は、汗と土と、自らの血でどす黒く汚れていた。


 ワンアウト、一、二塁。

 川崎第一の攻撃。

 打席には、この試合で二安打を放っている6番打者。


 湊は、ロージンバッグを力なく落とした。

 白い粉が、熱風に乗って虚しく散る。

 サインを見る。佐伯のミットが、外角低めを要求している。

 セットポジション。

 痛みを座標にする。

 左足を上げる。

 だが。

 ティム・リンスカムのダイナミックな跳躍を支えてきた大腿部の筋肉が、微かに痙攣を起こした。

 踏み出した左足が、グラウンドの土を深く噛み切れない。

 上体が突っ込む。

 腕が、遅れる。

 スローモーション。

 指先から白球が、力なくすっぽ抜けた。

 それは、打者を幻惑する「青い炎」ではない。

 回転軸を失い、ホップ成分も消え失せた、ただの死に体となった白球だった。

 川崎第一の打者の眼が、獲物を狙う獣のように見開かれる。

 天性のセンスが、その甘い球を逃すはずがなかった。

 銀色のバットが、容赦なく振り抜かれる。


 カキィィン。

 鈍い音。

 打球は、強烈なライナーとなって三塁線を襲った。

 サードの熊田が、泥まみれになって横っ飛びする。

 グラブの網の先に、ボールが収まった。

 間一髪、アウト。


「……っ」


 湊はマウンド上で膝に手をつき、荒い息を吐いた。

 運が良かっただけだ。

 打球がわずかにズレていれば、逆転されていた。

 

 あと一人。

 だが、湊の右手は、もう自力でボールを握る形を維持できなかった。

 中指と薬指が痙攣し、開かない。

 限界だった。

 誰の目にも、それは明らかだった。


 ベンチから、鬼塚監督がゆっくりと立ち上がるのが見えた。

 交代。

 その事実が、湊の胸に重くのしかかる。


(……まだ、終われない)


 父の呪縛を断ち切った。野生のセンスを、論理と狂気でねじ伏せた。

 ここでマウンドを降りれば、試合は。

 その時だった。

 鬼塚監督を制止し、ベンチの薄暗い奥から、歩み出てきた巨大な影があった。


 背番号1。

 エース、豊田零司。

 スタジアムの空気が、一瞬にして凍りついた。

 豊田はゆっくりと、俯く湊の前に真っ直ぐに立った。

 圧倒的な「冷たさ」。

 マウンドを支配してきた独裁者の、絶対的な温度感。

 豊田は、何も言わなかった。

 ただ、湊の血に染まった右手と、痙攣する指先を静かに見下ろした。


「……豊田、さん」


 湊の声は、ひどく掠れていた。

 豊田は、自らのグラブで。

 湊の泥だらけの胸を、ドンッと強く叩いた。


「……繋げ」


 その一言だけだった。

 低く、地を這うような声。

 「よくやった」でも「休め」でもない。

 異端の1年生が、血を吐くような努力と狂気で守り抜いたマウンド。

 それを、聖隷のエースとして、確かに受け取ったという宣言。

 旧秩序の象徴であった王が。

 122キロの「毒」を、聖隷の正統なる系譜として認めた瞬間だった。

 湊は、静かに頷いた。

 ボールを、豊田の右手に渡す。

 そのボールは、湊の熱と血で、異常なほどに熱かった。

 湊がマウンドを降りる。

 入れ替わるように、豊田がプレートを踏みしめる。

 

 川崎第一の最後の攻撃。

 マウンドには、豊田零司。

 川崎第一の打線が、聖隷の王を喰い殺そうと再び牙を剥く。

 だが、豊田は動じない。

 王は、玉座を譲るその瞬間まで、王でなければならない。

 豊田が、左足を高く上げる。

 湊の変則的な跳躍とは違う、一切の無駄を省いた、美しく暴力的なオーソドックス。

 右腕が、天高く振りかぶられる。

 肘の靭帯が、限界の悲鳴を上げる。

 だが、豊田はそれを、圧倒的な意志の力で完全に封じ込めた。

 ここから、わずか1秒足らずの時間が始まる。

 スローモーション。

 湊の2400rpmのバグとは違う。

 物理法則の頂点に君臨する、純粋な「武」の質量。

 150キロの直球。

 白球が、空間を一直線に引き裂いていく。

 打者の直感が、その暴力的な速度に反応しきれない。

 野生のフルスイングが、ボールの軌道の下を空回りする。


 パァァァァン!!

 圧倒的な静寂を打ち破る、佐伯のミットの爆音。

 遅れて、審判の右手が天を突く。


「ストライク! バッターアウト!!」


 ゲームセット。

 聖隷高校、準々決勝突破。

 スタジアムを揺るがす大歓声の中。

 豊田はマウンドで、表情一つ変えずに、ただ冷たい空を見上げていた。

 ベンチの奥では、湊が右腕を氷嚢で抱えながら、その王の背中を見つめている。

 新時代の引き金と、死にゆく絶対的秩序。

 二つの異なる炎が、確かに一つの勝利を「繋いだ」夏の夕暮れだった。

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