第63話:視界からの消失
第63話:視界からの消失(リリース操作)
3回表。横浜スタジアム。
暴力的なまでの太陽が、人工芝の緑とアンツーカーの茶色を焼き焦がしている。
マウンドの土を、一条湊のレッドスターが深く踏みしめた。
打席には、川崎第一の5番打者。
彼らは、データという名の思考を持たない。
野生の獣のようにバットを構え、重心を低く揺らしている。
ザッ。
ザッ。
スパイクが土を噛む音が響く。
大地を力でねじ伏せるような、暴力的な躍動感。
栄光学館の規則正しい足音とは対極にある、本能の威圧。
彼らは飛んできた白球を、直感とバネだけで叩き潰す。
湊は、ロージンバッグを手に取った。
右手の人差し指と中指の間。
裂けたマメに、白い粉が容赦なく沁み込む。
激痛。
だが、その痛みが、湊の脳を氷のように冷たく、そしてクリアに保っていた。
もう、味方を壊す恐怖はない。
佐伯の「手首の一本や二本、くれてやる」という言葉。
豊田の「俺が後始末をつけてやる」という、王の死の覚悟。
その時だった。
バックネット裏から、スタジアムの喧騒を切り裂くような、太く通る声が響いた。
「センスに頼るな!!」
湊は、ビクリと肩を揺らした。
声の主は、分かっていた。
父、一条健造。
川崎第一のOBであり、圧倒的なセンスでプロ寸前まで行った男。
「ボールの出所を見ろ! 反射で振るな! 考えろ!!」
父は、後輩である川崎第一の選手たちに向けて叫んでいた。
いや。違う。
それは、かつての自分自身への戒めだ。
そして。マウンドに立つ、自らの息子が持つ「思考と論理の力」を、無意識に認めてしまった敗北宣言でもあった。
(……父さん)
「センスがない」と、かつて自分を切り捨てた男。
その男が今、センスの限界を叫んでいる。
湊の胸の奥で、最後に残っていた細い鎖が、音を立てて千切れた。
過去の亡霊からの解放。
恐怖というノイズが、湊の神経から完全に消え去った。
湊の眼が、すうっと細められる。
美術部で培った観察眼。
打者の重心を、脳内のキャンバスにデッサンする。
右足の踵。左肩の開き。骨盤の傾き。
直感型(赤)の打者は、ボールの出所を視覚の「端」で捉え、反射で打ちにくる。
ならば。
その視覚の「端」から、ボールを消せばいい。
湊は、マウンドのプレートを踏む右足の位置を、三塁側へわずかにズラした。
たった五センチ。
だが、マウンドからホームベースまでの18.44メートルの距離において、その五センチのズレは、打者の視界に致命的な盲点を生み出す。
湊は、セットポジションに入った。
痛覚を、座標にする。
左足を高く上げる。ティム・リンスカムの跳躍。
極端なインステップ。
右腕が、背中の後ろに深く隠れる。
打者からは、湊の腕が全く見えない。
そして。
一気に沈み込み、150キロの腕の振りを爆発させる。
裂けたマメの淵で、ボールの縫い目を強烈に削り取る。
指先が悲鳴を上げる。
ここから、わずか1秒足らずの時間が始まる。
スローモーション。
白球が、湊の背中の陰から、突如として空間に出現する。
打者の野生の眼球が、その「消失と出現」に反応しきれない。
直感の起動が、コンマ数秒、遅れる。
放たれたのは、122キロの火の玉ストレート。2400rpm。
打者が慌ててバットを出す。
だが、そのスイングには、先ほどまでの確信に満ちた暴力性はない。
白球は、重力を拒絶し、打者の手元で不気味にホップした。
銀色のバットの下を、白球がすり抜ける。
パァァァン!!
佐伯のミットが、乾いた爆音をスタジアムに響き渡らせた。
「ストライク!」
打者は、呆然と自分のバットを見つめていた。
自分の天性のセンスが、初めて「見えない恐怖」に屈した瞬間だった。
ベンチ裏では、結城陽葵が、真っ黒に汚れたノートに新たな直線を引いていた。
(……リリース角度の変更。視差の利用。完璧だよ、湊くん)
彼女の冷たい理知が、湊の狂気をデータとして肯定する。
2球目。
湊は、再び同じフォームで跳躍した。
今度は、中指と薬指でボールを深く挟み込む。
150キロの腕の振り。
打者は、先ほどのホップするストレートの残像に囚われている。
スローモーション。
白球が、再び視界の死角から出現する。
打者は、今度こそ直感で叩き潰そうと、力任せにバットを振り下ろした。
だが。
それは、80キロの毒。
『バルカンチェンジ』。
ボールは、打者の手元で、まるで空気に穴が空いたかのように、斜め下方へと急激に消失した。
打者のバットが、何もない虚空を激しく叩く。
空回りした野生の力が、打者の体勢を無惨に崩す。
膝からグラウンドの土へ崩れ落ちる、川崎の怪物。
スカッ。
パァァァン!!
圧倒的な静寂。
そして、遅れて響く爆音。
「ストライク! バッターアウト!!」
川崎第一のベンチが、初めて凍りついた。
彼らの誇る「天性のセンス」が、物理的な論理と、痛覚を代償にした狂気の前に、完全にへし折られたのだ。
湊は、マウンドの中央で、静かに息を吐いた。
ユニフォームの白が、夏の太陽の下で眩しく輝く。
右腕は熱を持ち、指からは再び血が滲んでいる。
だが、彼の心は、これまでにないほど澄み切っていた。
青い炎。
感情を殺し、意思のみで肉体を完全に支配する領域。
バックネット裏の父の姿は、もう湊の視界には入っていなかった。
ただ、ホームベースの奥で、泥だらけのミットを構える佐伯の顔だけが見える。
聖隷のベンチでは、エースの豊田零司が、静かに頷いていた。
己の腕の死を覚悟した王の「冷たさ」。
ベンチで声を枯らす椛島の「熱さ」。
そして、マウンドで無音の炎を燃やす湊の「狂気」。
それらが一つに融け合い、新生・聖隷高校の真の姿が、今、ここに完成しようとしていた。




