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リミッター・ハイ  作者: あめたす


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第61話:過去の亡霊たち

第61話:過去の亡霊たち


 夜の闇が、夏の熱気をわずかに冷ましていく。

 部室裏の、薄暗い自動販売機の前。

 一条湊は一人、黒い「レッドスター」のスパイクの紐を締め直していた。

 右腕の前腕は、氷嚢を当てていてもなお、内側から燃えるような熱を持っている。

 人差し指と中指の間にできた裂けたマメは、テーピングの下で鋭い痛みを訴え続けている。

 その痛みすらも、彼にとっては明日もマウンドに立つための重要な座標だった。


「――相変わらず、暗いところで野球やってるね」


 不意に、静寂を破る声がした。

 顔を上げると、そこに織部翠が立っていた。

 他校の女子野球部員。中学時代からの旧友であり、同じ「投手の理想」に苦悩してきた同志。

 翠は、湊の隣にストンと腰を下ろした。

 冷たいスポーツドリンクの缶を、湊の火照った頬に押し当てる。


「冷たっ」


「新聞、見たよ。真壁って記者が『異常体質』なんて書いてた。120キロで強豪をきりきり舞いさせてるって」


 翠は、笑わなかった。

 彼女の視線は、湊の極端に発達した前腕と、ボロボロの指先に注がれていた。


「でも、あたしは知ってる。それが、小さい頃からの狂った壁当ての結晶だってこと」


「……」


「痛い?」


 翠の指先が、湊のテーピングをそっと撫でた。


「痛覚は、リリース角を測るセンサーだ。痛くないと、ズレる」


「相変わらず、理屈っぽい」


 翠は小さく息を吐き、夜空を見上げた。


「ねえ、湊。きみは、何と戦ってるの?」


「……戦ってる?」


「強豪校? 3年生のルール? それとも、自分の限界?」


 湊は、自分の手のひらを見つめた。

 脳裏に浮かぶのは、佐伯のミットに響く爆音。

 そして、その爆音のたびに、佐伯の手首にかかっているであろう尋常ではない負荷。

 あの不規則に歪むバグの球は。

 打者だけでなく、捕手である味方すらも、物理的に壊してしまうのではないか。


「……怖いんだ」


 湊の口から、ポツリと本音が漏れた。


「僕がリミッターを外して、全力で腕を振れば。あのバグは、佐伯の手首を、ミットを、いつか完全に破壊してしまう。僕の全力は、味方を傷つける毒だ。……だから、無意識に腕を縮めてしまう」


 他者を壊すことへの、根源的な恐怖。

 それが、彼の脳にかけられたリミッターの、もう一つの正体。


 「センスがない」と父が吐き捨てた言葉は、あるいは、その異常な関節の可動域と執着が、いつか他者と自分を完全に壊してしまうことを予見しての、残酷な優しさだったのかもしれない。

 翠は、何も言わなかった。

 ただ、隣で静かに夜の空気を共有していた。

 やがて、彼女は立ち上がり、湊を見下ろした。


「きみの122キロには。きみ自身の魂が宿ってる」


「魂……」


「誰かを壊すとか、センスがないとか。そんな言葉で、自分を縛るなよ。きみの球は、きみのものだ」


 翠は、踵を返した。


「明日の準々決勝、見に行くから。絶対に、負けないで」


 夜の闇の中。

 湊は、再びスパイクで強く土を蹴った。

 迷いは、まだ完全には消えていない。

 だが、戦う理由は、確かにある。

        

 翌日。

 突き抜けるような、暴力的な夏の青空。

 準々決勝。舞台は、横浜スタジアム。

 人工芝の緑と、アンツーカーの茶色が、熱気でぐにゃりと歪んでいる。

 三塁側ベンチ。対戦校、川崎第一高校。

 神奈川の頂点を狙う、エリート集団。

 彼らの信条は、圧倒的な「センス」と「身体能力」。

 データや理屈を鼻で笑い、天性の直感と野生のバネだけでボールを弾き返す、怪物たちの群れ。


 ザッ。

 ザッ。

 彼らが素振りをするたび。ダッシュをするたび。

 スパイクが、激しくグラウンドを削る。

 データで統率された栄光学館の規則正しい足音とは違う。

 大地を力でねじ伏せるような、暴力的な躍動感。

 それが、湊の耳元で、自らの鼓動のように不気味に響き続けていた。

 そして。

 湊の視線は、バックネット裏の最前列に釘付けになっていた。

 そこに、巨大な影が座っている。

 元社会人野球のスター選手であり、川崎第一のOB。

 父・一条健造。

 父のサングラス越しの視線が。

 エックス線のように、湊の脳髄を直接透過してくるような圧迫感があった。


 「お前の理屈など、本当のセンスの前では無力だ」。


 声は聞こえない。だが、その無言の威圧が、湊の神経をがんじがらめに縛り上げる。

 過去の亡霊が、マウンドの湊を押し潰そうとしていた。


「湊」


 ベンチ前。

 エースの豊田零司が、腕を組んだまま、低い声で呼んだ。

 豊田は、ただ静かに死に場所を探す王のように、グラウンドを見つめていた。


「先発は、お前だ。……分かってるな」


「……はい」


 1回表。聖隷の守備。

 マウンドに立つ、一条湊。

 川崎第一の1番打者が、バッターボックスに入る。


 身長185センチの、筋骨隆々とした体躯。

 豪快型(黄)、あるいは直感型(赤)。

 湊は、前髪の隙間から、相手の重心の移動をデッサンしようとした。

 肩のライン。骨盤の角度。

 だが。

 線が、定まらない。

 彼らの構えには、セオリーという「型」が存在しない。

 ただボールが来たら、動物のように反応して叩く。

 極限の野生。

 湊は、セットポジションに入った。

 グラブの中で、裂けたマメに縫い目を当てる。

 痛覚のセンサー。

 だが、その瞬間。

 佐伯のミットが、父の言葉が、脳裏をよぎった。


 ――僕の全力は、味方を壊す。

 コンマ数秒の、無意識のブレーキ。

 左足を上げ、ティム・リンスカムの跳躍から、腕を振る。

 だが、その振りは、わずかに、本当にわずかに、自己防衛の「優しさ」によって縮こまっていた。

 ここから、わずか1秒足らずの時間が始まる。

 スローモーション。

 放たれた122キロの直球。

 しかし、それは2400rpmの、重力を拒絶する軌道ではない。

 優しさによって回転数を失った、ただの「少し遅いストレート」に成り下がっていた。


 ベンチ裏。

 黒いノートに向かっていた結城陽葵の鉛筆が、ピタリと止まった。

 彼女の眼は、デジタル機器などなくとも、湊のバグの消失を正確に計算していた。


 (……回転数が落ちてる。これじゃあ、ただの棒球だよ)


 川崎第一の打者の目が、獰猛に光った。

 理屈ではない。

 天性のセンスが、その甘い球威を逃すはずがなかった。

 野性のスイングが、ボールの軌道を直感だけで完璧に捉える。


 カキィィィン!!

 スローモーションの世界を打ち破る、すさまじい金属音。

 打球は、一瞬で三遊間を真っ二つに切り裂いた。

 レフト前ヒット。

 スタンドが、どよめく。

 マウンド上で、湊は息を呑んだ。

 バックネット裏の父の影が、さらに巨大に膨れ上がり、空の青を真っ黒に塗り潰していく。

 センスという名の暴力が。

 不器用な理論を、今、力でへし折ろうとしていた。

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