第60話:狂気の伝染
第60話:狂気の伝染
9回裏。聖隷高校の最後の攻撃。
スコアボードには「2-3」の数字が、西日を浴びて赤々と光っていた。
三塁側ベンチの栄光学館は、もうバインダーをめくっていない。
いや、めくることができなかった。
一条湊の「1度の誤差」が引き起こしたデータ汚染は、彼らが信奉するAIの予測アルゴリズムに致命的な論理矛盾を発生させていた。
グラウンドに立つ栄光のナインの顔には、明らかな「迷い」が張り付いている。
マウンドの投手は、捕手のサインに何度も首を振っていた。
どの球種を選択しても、正解の確率が弾き出されない。
システムという名の神を失った彼らは、自分自身の直感で戦う術を持っていなかった。
「……行け。ぶっ壊してこい」
一塁側ベンチ。
鬼塚監督の低い声が、攻撃の幕開けを告げた。
先頭打者。6番・蔵敷徹。
彼は初球、AIが「絶対に見逃す」と予測した外角のボール球に、躊躇なく踏み込んだ。
豪快なスイング。
金属音が響き、打球はレフト前へとポテンと落ちる。
論理を無視した、気合と力だけの安打。
続く7番・大島大夢も、悪球打ちの天才としての本領を発揮し、ワンバウンドしそうな変化球を強引にすくい上げてライト前へ運ぶ。
ノーアウト一、二塁。
圧倒的なデータ野球の前に、一度は完全に心が折れかけていた聖隷打線。
だが、湊が自らの指の肉を裂いてまで、激痛の中で繋ぎ止めた「0」という数字が。
そして、陽葵の黒鉛にまみれた異常な執念が。
聖隷の選手たちの脳内に、得体の知れない「熱」として伝染していた。
「代打――鳴海」
8番・山倉に代わり、鳴海聖がバッターボックスへ向かう。
栄光のバッテリーは、データのない代打の登場に完全にパニックに陥った。
外角への逃げのストレート。
鳴海は、それを見た瞬間、無邪気な子供のように笑った。
カキィィン!
まるでバッティングセンターで遊ぶかのような、無防備でフルスイングの一撃。
打球は、一二塁間を綺麗に真っ二つに割った。
二塁ランナーの蔵敷が、巨体を揺らしてホームへと生還する。
3-3。同点。
球場が、割れんばかりの歓声に包まれた。
突き抜けるような空の青と、夕暮れの黄金色が交じり合う。
だが、聖隷の攻撃は終わらない。
ノーアウト一、二塁。
打席には、9番・二塁手の清田謙介。
3年生。伝統と規律を重んじ、バント職人として生きてきた男。
彼はこれまで、美術部出身の湊の「理屈」や、自由に振る舞う下級生たちを「和を乱す」と公然と否定してきた。
だが、今の清田の瞳には、かつての冷たさはない。
彼が見つめていたのは、ベンチの奥で血の滲む右手を抱え、静かに息をする1年生投手の姿だった。
(……ふざけた後輩だ。先輩に、こんな泥仕事ばかりさせやがって)
清田は、バットを寝かせた。
初球。顔面スレスレの厳しいインコース。
普通なら避ける球。
だが清田は、一歩も引かなかった。
ボールの勢いを完全に殺す、職人芸のバント。
自らの身体にボールが当たりそうになりながらも、執念でグラウンドの土へ転がす。
泥まみれになりながら一塁へヘッドスライディング。
結果はアウト。
しかし、ランナーは確実に二塁と三塁へ進んだ。
3年生のプライドを捨てた、泥臭い自己犠牲。
ワンアウト二、三塁。サヨナラの舞台が、完全に整った。
「代打――乾」
打席に向かうのは、2年生の乾慎太郎。
「粘りの極致」の異名を持つ男。
栄光の投手は、もう限界だった。
肩で息をし、AIの予測という心の拠り所を失い、ただの怯えた高校生に戻っていた。
乾は、バットを短く持った。
初球。ストライク。乾はわざとボールの下を叩き、バックネットへファウルにする。
2球目。外角のボール球。見逃す。
3球目。ストライク。またしても、ファウル。
そこから、地獄が始まった。
乾は、ストライクゾーンに来る球を、ことごとくカットし続けた。
カキッ。
カキッ。
右へ、左へ、後ろへ。
5球。8球。10球。
AIは「これほど連続してファウルを打つ確率は0.02%」と弾き出していたかもしれない。
だが、目の前の現実は、論理を嘲笑うかのようにファウルが続く。
栄光の投手の顔面から、血の気が完全に失せていた。
投げる球が、ない。
14球目。
投手の指先から、ボールがすっぽ抜けた。
力のない白球が、乾の頭上を遥かに越えて、バックネットへ突き刺さる。
暴投。
三塁ランナーの大島が、歓喜の雄叫びと共にホームを踏み抜いた。
4-3。
サヨナラ勝ち。
「うおおおおおおおおおおっ!!」
球場全体が、爆発したような歓声に揺れた。
ベンチから、聖隷の選手たちが怒濤のようにグラウンドへと飛び出していく。
完璧なデータ野球を、アナログな狂気と執念の粘りで、完全に粉砕した。
聖隷高校、5回戦突破。ベスト8進出。
誰もが泥にまみれ、抱き合い、勝利の味に酔いしれている。
だが。
その歓喜の輪から少し外れた場所で。
一条湊は、一人、自分の右手を見つめていた。
裂けたマメからは、もう血は止まっていた。
しかし、代わりに前腕全体が、内側から燃えるような異常な熱を放って、激しく脈打っていた。
指先を動かすだけで、神経にヤスリをかけられるような激痛が走る。
「痛覚をセンサーにする」という極限の投球術。
それは、肉体の限界を前借りにした、悪魔の契約だった。
「……最高のデータが、取れた」
ベンチの奥。
結城陽葵が、真っ黒になった大学ノートを胸に抱きしめ、恍惚とした表情を浮かべていた。
彼女の目には、勝利の歓喜よりも、湊の肉体が発した「物理的バグ」の美しさしか映っていない。
仁衣菜が、その横で、青ざめた顔で湊の腕に氷嚢を当てようと震えている。
そして。
最も暗いベンチの隅で。
エースの豊田零司が、自分の右肘を、左手で強く、血が滲むほどに握りしめていた。
マウンド上で躍動する下級生たちの狂気。
それを目の当たりにした豊田の肘の奥では、彼の選手生命そのものを食い破る、致命的な崩壊の音が、誰にも聞こえないまま静かに響き続けていた。
勝利という名の、劇薬。
聖隷の「絶対的秩序」は死んだ。
残されたのは、狂気と知略に染まった、歪な新生チーム。
突き抜けるような青空の下、次なる死闘の足音が、静かに、しかし確実に迫っていた。
次戦の相手は。
父・一条健造の母校であり、「センスの絶対主義」を掲げる、川崎第一高校。




