第59話:完璧なエラー
第59話:完璧なエラー
グラウンドに差し込む西日が、重い土の茶色を黄金色に焼き焦がしていた。
9回表。栄光学館の最後の攻撃。
スコアは3対2。聖隷が1点を追う展開のまま、最終回を迎えていた。
三塁側ベンチからは、もうあの忌まわしいバインダーをめくる音は聞こえない。
栄光学館の選手たちの瞳には、明らかな「迷い」が宿っていた。
彼らが信奉してきた完全無欠のAI予測。
それが、一条湊の裂けた指先と、結城陽葵の黒鉛によって汚染され、機能不全に陥ってから3イニング。
バッターボックスに立つ栄光の打者たちは、振るべきか、見逃すべきか、その選択の根拠を失い、完全にフリーズしていた。
マウンド上の湊は、深く息を吐いた。
右手の指先は、極限まで薄く巻かれたテーピングの白を、赤黒く染め上げている。
ボールの縫い目に指をかけるたび、裂けたマメに激痛が走る。
だが、その痛覚こそが、湊にとってボールを1ミリの狂いもなく制御するための「最高精度のセンサー」と化していた。
打席には、栄光学館の5番打者。
湊はセットポジションに入り、左足を高く上げた。
コンマ5秒の静止。
そして、一気に腕を振り抜く。
放たれたのは、80キロの『バルカンチェンジ』。
打者の視線が、斜め下方へと消失する軌道に釘付けになる。
バットが中途半端に出かかり、止まる。
「ストライク!」
球審の声に、打者は小さく肩を震わせた。
捕手の佐伯誠二は、ミットの中で小さく笑った。
(……完全に、バグってる)
AIの予測値が崩壊したことで、栄光学館の選手たちは「自分の眼と直感」に頼らざるを得なくなっている。
しかし、彼らはこれまで、自らの感覚を信じる訓練をしてこなかった。
システムに依存しきった脳は、湊の不規則なリズムと、落差40キロの魔球を前に、完全に処理能力を超えていた。
2球目。佐伯のサイン。
湊は、今度はクイックモーションで投じた。
122キロの、浮き上がる直球。
タイミングを早められた打者は、慌ててバットを振る。
だが、バインダーの記憶にある軌道よりも「1度」だけ横滑りする、あの汚染されたストレート。
バットの先が空を切り、キャッチャーミットが爆音を鳴らす。
「ストライク!」
ツーカウント。
栄光学館のベンチが、初めて静まり返ったまま、絶望の色を浮かべていた。
次で決める。佐伯がサインを出そうとした、その時だった。
「――タイム」
審判を呼び止めたのは、ベンチの最前列で試合を見つめていた、黒田一だった。
3年生の正捕手。
豊田のワンマンチームの冷徹な女房役であり、下級生の「理論」を切り捨ててきた男。
その黒田が、グラウンドへ歩み出た。
佐伯が、怪訝な顔で立ち上がる。湊もマウンドから降りた。
「……何ですか、黒田さん」
佐伯の言葉には、棘があった。
黒田は、湊の血に染まった指先を一瞥した。
そして、佐伯の胸プロテクターを、ドンッと拳で突いた。
「データだの、リズムだの、小賢しいんだよ」
黒田の声は低く、しかしベンチの奥まで響くほどの凄みがあった。
「栄光の奴らは、データにない『泥臭いインコースのボール球』に一番怯えてる。あいつらの目は、もう完全にパニックを起こしてる。俺と豊田が、修羅場で何度も見てきた目の色だ」
「……」
「お前らの理論で、あいつらの脳を狂わせたんだろ。だったら最後は、俺たちの『経験』で、あいつらの心を完全にへし折れ」
黒田はそれだけ言うと、踵を返してベンチへ戻っていった。
佐伯は、黒田の背中を見つめ、そして湊を見た。
湊の、血と汗にまみれた顔。
陽葵の、真っ黒になったノート。
そして、黒田の泥臭い修羅場の勘。
3年生として、独裁政権を築いてきた黒田の「経験値」。
それが、陽葵の「データ汚染」と、湊の「狂気」と、ガッチリと噛み合った瞬間だった。
「……湊」
佐伯はマスクを被り直し、ミットを構えた。
その位置は。
右打者の、顔面スレスレのインコース高め。
完全に、データ外のクソボール。
湊は、深く頷いた。
左足を上げる。
今度は、静止もクイックもしない。
最も力が伝わる、完璧なティム・リンスカムの跳躍。
痛みを、座標に変える。
150キロの腕の振りから、すべてを絞り出すように、白球を放った。
スローモーション。
白球が、打者の顔面に向かって、恐ろしいホップ軌道を描いて迫る。
栄光学館の打者の脳が、完全に破綻した。
バルカンチェンジで視線を下げられ、リズムで狂わされ、最後にデータにない顔面への豪速球。
(――怖い!)
本能的な恐怖。
打者は、バインダーの記憶も、AIの予測もすべて投げ捨て、身をすくめるようにして、腰を引いた。
バットが、中途半端に波打つ。
だが、ボールは。
湊の裂けたマメによって生み出された『1度の誤差』により、顔面からストライクゾーンのインハイへと、鋭く横滑りしながら突き刺さった。
パァァァァン!!
静寂を引き裂く、この試合で一番の爆音が、球場に木霊した。
打者は、腰を抜かしたまま、バッターボックスに尻餅をついた。
「ストライク! バッターアウト!!」
スリーアウト、チェンジ。
9回表を、無失点で切り抜けた。
圧倒的な、完璧なエラー。
栄光学館のシステムは、アナログな狂気と経験の前に、完全に沈黙した。
マウンドを降りる湊を、佐伯が泥だらけの腕で抱きしめる。
ベンチ裏では、陽葵が真っ黒になったノートを抱きしめ、静かに、しかし確かな歓喜に震えていた。
その横で、仁衣菜が涙を拭いながら、新しい氷嚢の準備をしている。
そして。
ベンチの最前列で。
エースの豊田零司が、初めて湊の投球を、腕を組まずに凝視していた。
その瞳には、旧秩序の王としてのプライドと、新時代のバケモノへの畏怖が入り混じっていた。
「……よくやった」
鬼塚監督が、低く呟いた。
「技術の前に、人間としての覚悟がある。さあ、逆転だ」
9回裏。聖隷の最後の攻撃が、今、始まろうとしていた。




