第58話:黒鉛の共犯者
第58話:黒鉛の共犯者
カリッ。
カリカリカリッ。
ベンチの奥深く。
鉛筆の芯が、紙の表面を削る音が響き続けていた。
結城陽葵の視線は、膝の上の大学ノートから一切ブレない。
書き殴られた数式。放物線のグラフ。
白いページの余白が、黒鉛によって無慈悲に塗りつぶされていく。
栄光学館は、AIの演算結果を分厚い黒バインダーに印刷して持ち込んだ。
ならば。彼女は。
自らの肉体と脳髄で、コンピュータの演算を代行するしかなかった。
ポキッ。
筆圧に耐えきれず、鉛筆の芯が砕け散る。
陽葵は表情を変えることなく、瞬時に新しい鉛筆を手に取った。
再び、黒鉛が走る。
彼女の白い手首の横顔が、炭の粉でどす黒く汚れていた。
それはまるで、狂気に取り憑かれた画家のデッサンのようだった。
「……湊くん。戻ってきて」
5回が終了した。スコアは0-3のまま。
マウンドからベンチへ帰還した一条湊を、陽葵が呼び止めた。
湊の右手。
ボールを握る人差し指と中指の間にできた、硬く分厚いマメ。
それが、パックリと無惨に裂けていた。
皮膚の奥の赤い肉が露出し、鮮血がじわりと滲み出している。
10年間の壁当てと、変則的なリリースが、肉体に限界を突きつけていた。
「湊……! あんた、その指!」
浅倉仁衣菜が、悲鳴のような声を上げた。
救急箱からテーピングと消毒液を鷲掴みにし、湊の右手にしがみつく。
ショートカットの髪が乱れ、彼女の吊り上がった目からポロポロと涙がこぼれ落ちていた。
「バカッ。なんで隠してたのよ! こんなに血が出て……。もう投げちゃダメ。私が監督に言って、交代を――」
「待って、仁衣菜ちゃん」
陽葵の、氷のように冷たい声が遮った。
彼女は、真っ黒に汚れたノートを抱えたまま、湊の裂けた指先を覗き込む。
同情も、悲哀もない。
ただ、実験結果を検分する科学者の瞳だった。
「テーピングは、極限まで薄く巻いて。傷口を完全に塞いじゃダメ」
「……は?」
仁衣菜が、信じられないものを見る目で陽葵を睨みつけた。
「何言ってるの!? 血が出てるのよ! これ以上投げたら、傷口が広がって、二度とボールが握れなくなるかもしれないのに!」
「栄光のAIシステムは、湊くんの『ズレ』を修正し始めてる。リズムの変更だけじゃ、もう抑えきれない」
陽葵は、ノートの真っ黒なページを湊に見せた。
「この裂けたマメの淵。そこの皮膚の引っ掛かりが、ボールのリリース角に『1度』の誤差を生み出しているの。それが、栄光の予測データを汚染する最強のバグなのよ」
「頭おかしいんじゃないの!?」
仁衣菜が激昂した。
彼女の「熱い」優しさと、陽葵の「冷たい」論理。
勝利と魔球の完成を同義とする陽葵にとって、湊の肉体すらも計算式の一部でしかない。
ベンチの空気が凍りつく。
3年生たちは、1年生と2年生が繰り広げる異様な口論に、言葉を失っていた。
「……陽葵の言う通りだ」
低い声。
湊だった。
彼は、自らの血で汚れた指先を見つめながら、小さく笑った。
「仁衣菜。テーピングは、薄くでいい。縫い目の感覚が消えないようにしてくれ」
「湊……あんたまで」
「痛いのは、分かってる」
湊は、帽子を深く被り直した。
「でも。この痛みが、ボールの縫い目の位置を、一番正確に教えてくれる」
痛覚すらも。
脳に直結するセンサーとして利用する。
感情を殺し、意思のみで肉体を支配する。
それが、湊の行き着いた「炎」の極致だった。
仁衣菜は震える手で、薄く、極限まで薄く、湊の指に白いテープを巻いた。
血の赤が、すぐにテープの白を染め抜いていく。
6回裏。
グラウンドの土は、容赦ない西日に炙られ、重い茶色を呈している。
マウンドに立つ湊。
栄光学館の打者が、右打席に入る。
三塁側ベンチからは。
バサッ。バサッ。
分厚い黒バインダーをめくる、無機質な音が響く。
湊は、セットポジションに入った。
グラブの中で、ボールを握る。
裂けたマメの淵に、牛革の硬い縫い目を意図的に押し当てる。
――痛い。
神経に直接ヤスリをかけられるような、凄まじい激痛。
脳髄が痺れ、視界が白く明滅する。
だが。
その激痛のフィードバックが、ミリ単位でのボールの角度を、湊の脳裏に完璧にデッサンさせた。
痛みが、座標になる。
左足を、上げる。
コンマ5秒の静止。
相手のタイミングを破壊する、不規則なリズム。
そして。
一気に沈み込み、150キロの腕の振りを爆発させる。
リリースの瞬間。
裂けたマメの引っ掛かりを利用し、意図的にボールを「撫でる」ように切る。
激痛が、網膜を灼く。
ここから、わずか1秒足らずの時間が始まる。
スローモーション。
白球が、マウンドとホームベースの中間点を越える。
打者の眼球が、ボールの軌道を捉える。
122キロ。2400rpm。
浮き上がる直球。
栄光の打者は、バインダーのデータ通りに、高めの軌道へバットを振り出した。
だが。
ボールの回転軸は。
陽葵の黒鉛の計算と、湊の血の滲む指先によって、通常のストレートから『1度』だけジャイロ回転寄りにズレていた。
打者の手元。
ホップするはずの白球が。
突如として、重力に逆らうのをやめ、右打者の内角へと「横滑り」するように沈んだ。
打者の脳が。
完全にエラーを吐いた。
データにない。バインダーにない。
予測演算が崩壊し、膝がガクガクと割れる。
銀色のバットが、何もない虚空を、中途半端な軌道で通過した。
パァァァン!
静寂を切り裂く、佐伯のミットの爆音。
ストライク。
空振り三振。
栄光学館のベンチから。
バインダーをめくる音が、ピタリと止まった。
彼らの絶対的なシステムが、アナログな肉体の「バグ」によって、完全に論理崩壊を起こした瞬間だった。
ベンチ裏。
陽葵が、真っ黒になったノートをパタンと閉じた。
黒鉛にまみれた彼女の細い指先が、微かに、しかし確かな歓喜に震えていた。
聖隷の3年生たちは。
ただ呆然と、マウンドの湊と、ベンチの陽葵を見ていた。
彼らが築き上げてきた「武」の秩序。
それを破壊し、今、強豪校をねじ伏せようとしているのは。
泥と、血と、黒鉛にまみれた、狂気の共犯関係だった。




