表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リミッター・ハイ  作者: あめたす


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
59/61

第57話:拍動のハッキング

第57話:拍動リズムのハッキング


 ベンチに吹き込む海風すらも、生温かく、息苦しい。

 スコアボードの「0-3」という数字が、ただの点差以上の重圧となって湊の肩にのしかかっていた。

 グラウンドでは、栄光学館の選手たちが淡々と守備位置についている。

 彼らの動きには、無駄な感情がない。

 エラーへの恐怖も、ファインプレーへの歓喜も。

 ただ、システムが弾き出した「正解」を、肉体というハードウェアで出力しているだけだ。


「……湊」


 ベンチの端。

 結城陽葵の声が、不気味なほど低く響いた。

 彼女の膝の上には、大学ノートが開かれている。

 そのページは、すでに真っ黒だった。

 異常な速度で書き殴られた計算式とグラフ。鉛筆の黒鉛が、彼女の手首まで汚している。


「彼らのシステムは、完璧に近い。でも、完璧なシステムほど、前提条件が一つでも崩れれば、致命的なエラーを起こす」


 陽葵は、芯が丸くなった鉛筆を、指先で強く弾いた。

 折れた芯が、乾いた音を立ててベンチの床に落ちる。


「球種も、軌道も、回転数も、彼らのバインダーには全て『定数』として書き込まれてる。だったら、私たちが変えるべきなのは、そこじゃない」


「……どこを変えるって言うんだよ」


 佐伯誠二が、苛立ちを隠せない声で問う。

 陽葵は、黒く汚れたノートの真ん中に、太く、黒々とした一本の直線を引いた。


時間リズムだよ」


 陽葵の瞳が、狂気的な熱を帯びて光る。


「投球フォームの始動から、リリースまでの『秒数』。彼らは、湊くんの過去の映像から、その平均値を弾き出してタイミングを合わせている。だったら、その秒数を、1球ごとにバラバラにすればいい」


 湊は、自分の右腕を見つめた。

 ただでさえ、あの異質なフォームを維持するだけで、関節と靭帯に凄まじい負荷がかかっている。

 さらに、投球の途中で意図的に「タメ」を作ったり、逆に急加速させたりすれば、その負荷は掛け算となって筋肉を破壊しにくる。


「……できるか、湊」


 佐伯が、低い声で確認する。

 湊は、ゆっくりと顔を上げた。

 美術部で培った視覚が、陽葵の引いた黒い直線を捉える。

 時間を、切り刻む。

 キャンバスに絵の具を叩きつけるような、衝動的で不規則なリズム。


「やるしかない。……実戦じゃ、まだ試したことはなかったけど、練習はしてたから」


 4回裏。栄光学館の攻撃。

 マウンドには、一条湊。

 打席には、先ほどタイムリーを放った4番打者。

 右の豪快型(黄)。だが、栄光のシステムによって、その豪快さは冷徹な精密機械へとチューニングされている。

 湊は、セットポジションに入った。

 グラブの中で、ボールの縫い目に指をかける。

 壁当てで硬く変形したマメが、牛革の感触を鋭敏に拾う。

 左足を、高く上げる。

 ティム・リンスカムの跳躍。

 ――ここだ。

 湊は、左足を最高到達点に上げたまま、動きをピタリと止めた。

 コンマ5秒の、意図的な静止。

 わずか1秒足らずの勝負の世界において、コンマ5秒は永遠に等しい。

 打者の脳内システムが、激しいエラー音を鳴らした。

 「来るはずのタイミング」に、ボールが来ない。

 打者の重心が、前へと崩れかける。

 その瞬間。

 湊は、一気に沈み込み、爆発的な力で腕を振り抜いた。

 ストレート。

 いや、ただのストレートではない。

 静止状態からの急加速により、フォームのバランスがわずかに崩れた。

 だが、その「崩れ」が、指先の変形したマメとボールの縫い目の間に、意図しない摩擦を生んだ。

 スローモーション。

 白球が、打者の手元へと迫る。

 2400rpmの、浮き上がる軌道。

 しかし、今回はそこに、わずかな「スライダー成分」が混ざっていた。

 打者は、崩れかけた体勢から、無理やりバットを出した。

 彼らのバインダーには、この「リズムの遅延」と「軌道のズレ」は記載されていない。

 銀色のバットが、空を切る。

 白球は、バットの数センチ上を、不規則に揺れながら通過した。


 パァァァン!

 佐伯のミットが、乾いた音を立てる。

 空振り。


「……よしっ!」


 佐伯が、マスク越しに吠えた。

 栄光学館のベンチが、初めて微かにざわめく。

 控え選手たちが、慌てて黒いバインダーのページをめくる。


 バサッ、バサッ、バサッ。

 だが、そこには答えはない。


 2球目。

 湊は、今度は左足をほとんど上げずに、すり足のようなクイックモーションで投じた。

 バルカンチェンジ。

 タイミングを早められた打者は、反応が遅れる。

 慌ててバットを出すが、今度は手元で急激に沈む。

 スカッ。

 無惨な空振り。

 打者の膝が、ガクガクと震えていた。

 システムに依存しきった脳が、予測不能な「バグ」に対応できず、フリーズを起こしているのだ。


 3球目。

 再び、大きく足を上げる。

 今度は、静止しない。

 通常のリズム。

 スローモーション。

 打者は、もう何を信じればいいのか分からなくなっていた。

 直球か、変化球か。

 早いのか、遅いのか。

 迷いが、スイングの軌道を鈍らせる。

 放たれたのは、122キロの火の玉ストレート。

 迷いの中で振り遅れたバットが、ボールの下っ面を叩く。

 カキッ。

 力のない打球が、キャッチャーの後方へと高く舞い上がった。


「オーライ!」


 佐伯がマスクを放り投げ、フェンス際でボールをがっちりと掴む。

 ファウルフライ。アウト。

 マウンド上で、湊は荒い息を吐いた。

 右手を見ると、中指と人差し指の間にできた硬いマメが、少しだけ裂けていた。

 赤い血が、じわりと滲んでいる。

 変則的なリズムと、無理なリリースが、肉体に確実にダメージを与えていた。

 だが、その痛みが、湊の脳を異常なまでにクリアにしていた。


(……もっと。もっと狂わせる)


 ベンチ裏では、陽葵がさらに狂気的な速度でノートに鉛筆を走らせていた。

 湊の「ズレ」を、新たな計算式として再構築していく。

 アナログな肉体の反逆が、完璧なデジタルシステムを、少しずつ、確実に侵食し始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ