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リミッター・ハイ  作者: あめたす


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第56話:暗記された青い炎

第56話:暗記された青い炎


 容赦のない酷暑だった。

 5回戦。臨海部に位置する球場には、海からの生ぬるい風が吹き込んでいる。

 空の青。網膜を焼き尽くすような、暴力的なまでの純色。

 グラウンドの土の茶色は、選手たちの流す汗を吸い込み、黒く変色していた。

 熱気で景色がぐにゃりと歪む。


 三塁側ベンチ。栄光学館高校。

 東大進学者を多数輩出する、神奈川屈指の超進学校。


 彼らのベンチには、不気味な静寂が支配していた。

 声出しは、一切ない。

 彼らの手にあるのは、分厚い、漆黒のバインダーだった。

 事前のAI演算によって弾き出された、膨大なシミュレーションデータ。

 それを印刷した紙の束を、控え選手たちが一糸乱れぬ動作でめくっている。


 バサッ。

 バサッ。

 清稜のスパイクが土を噛む音とは違う。

 紙が擦れる、無機質で乾いた音。

 それが、一定の拍動を持って、聖隷高校のベンチへと響いてくる。

 彼らが纏うグレーのユニフォームは、熱気の中でも一切の血が通っていない、冷たい銀色に見えた。


「……気持ち悪い連中ね」


 浅倉仁衣菜が、腕を擦りながら呟いた。

 結城陽葵は、黙って手元のノートにペンを走らせている。彼女の瞳には、かつてないほどの緊張感が宿っていた。


 1回裏。聖隷の守備。

 マウンドには、一条湊。

 深く被った帽子。オールドスタイル。足元の黒いレッドスター。

 ベンチの奥。エースの豊田零司は、腕を組んだまま微動だにしない。

 捕手の黒田一は感情を完全に殺している。

 3年生たちの冷たい視線が、背中に突き刺さる。

 だが、湊の心は、不思議なほどに静かだった。

 もう、後戻りはできない。自分の122キロの「毒」で、このグラウンドを濁らせるだけだ。

 栄光学館の1番打者が、右打席に入る。

 バットを構える。その動きに、一切の無駄がない。

 湊は、深く息を吐いた。

 前髪の隙間から、美術部で培った観察眼が、打者を捉える。

 脳内のキャンバスに、打者の骨格をデッサンする。

 肩のライン。骨盤の角度。両足への重心の配分。

 微かな揺らぎすらない。

 彼らは「待って」いる。

 直感ではない。完璧に計算された座標を、ただ作業として待っている。


(――技巧派(青)。いや、全員が機械だ)


 湊は、セットポジションから動いた。

 ティム・リンスカムを模した、爆発的な跳躍。

 細身の身体からは想像もつかない歩幅。

 右腕が、鞭のようにしなる。

 150キロの腕の振り。

 指先が、白球の縫い目を弾く。

 ここから、わずか1秒足らずの時間が始まる。

 スローモーション。

 白球が、打者の手元へと迫る。

 122キロの、浮き上がる直球。2400rpmの異常なホップ成分。

 普通なら、バットの上を通過する。

 だが。打者の膝は、ピクリとも動かなかった。

 打者の眼球だけが、ボールの軌道を冷徹に追従する。


 パァァン!

 捕手・佐伯誠二のミットに、ボールが収まる。

 現実のスピードが、一気に戻る。


「ボール!」


 球審の声が響く。

 佐伯が、マスク越しに顔をしかめた。

 高めに外れたボール球。

 初見の打者なら、その150キロの腕の振りと、ボールの伸びに思わず手を出してしまう絶対の誘い球。

 それを見逃した。

 偶然ではない。打者の重心は、最初から「振る」という選択肢を完全に排除していた。


(……見えているのか)


 湊は、ロージンバッグを拾い上げた。

 白い粉が、熱風に乗って散る。

 2球目。佐伯のサイン。

 外角低めへの、ツーシーム。

 湊が、再び腕を振る。

 スローモーション。

 白球が、手元で小さく沈む。

 今度は、打者のバットが動いた。

 無駄のない、最短距離のダウンスイング。

 銀色の軌道が、白球の芯を完璧に捉える。


 カキィィィン!

 静寂を切り裂く、金属音。

 打球は、一二塁間を綺麗に真っ二つに割った。

 ライト前ヒット。


 バサッ。

 栄光学館のベンチで、控え選手たちが一斉にバインダーのページをめくった。

 狂気じみた、アナログな情報共有。

 彼らの脳内には、すでに陽葵が懸念した「2400rpmの軌道予測データ」が、完全にインプットされていたのだ。

 初見のバグは、彼らにとってすでに既知の「定数」だった。


 続く2番打者。

 佐伯は、早くも切り札のサインを出した。

 公式戦、二度目の開帳。

 不規則に揺れながら、打者の視界から斜め下方へ消失する魔球。

 『バルカンチェンジ』。

 湊は、中指と薬指で深くボールを挟み込んだ。

 前腕の筋肉が、ミシミシと軋む。

 150キロの腕の振りから、80キロの毒を放つ。

 落差40キロ以上の罠。

 スローモーション。

 白球が、打者の手元で急速にブレーキをかけ、斜めに沈む。

 打者の視界から、ボールが消える。

 はずだった。

 だが、打者は膝を柔らかく折り曲げ、スイングの開始を「コンマ数秒」だけ意図的に遅らせた。

 彼らは、バインダーのデータから「バルカンチェンジの減速値」を完全に暗記していたのだ。

 ボールが沈み切る、まさにその座標。

 そこに、銀色のバットが待ち構えていた。


 カキィィン!

 打球が、三塁線を鋭く破る。

 レフトの大島大夢が、泥まみれになって飛び込むが、届かない。

 連打。

 湊は、マウンド上で息を呑んだ。

 自分の最強の武器が。

 血を吐くような壁当てで手に入れた、あの炎が。

 ただの「計算式の一部」として、淡々と処理されていく。

 栄光学館の打線は、一切の感情を持たなかった。

 怒りも、焦りも、闘争心すらない。

 ただ、ストライクゾーンの特定の座標に来る球だけを、精密機械のようにジャストミートしてくる。

 湊の観察眼が、彼らの重心の移動をどれほど正確にデッサンしようと、相手の動きに「迷い」という陰影が一切存在しないのだ。


 バサッ。

 バサッ。

 ベンチから響く、黒いバインダーをめくる音。

 それが、湊の心臓を冷たい手で直接握り潰すような錯覚を起こさせる。


 3番打者。センター前へのタイムリーヒット。

 先制点が、無慈悲にスコアボードに刻まれる。

 聖隷のベンチは、静まり返っていた。

 3年生たちは、冷たい視線をマウンドに向けているだけだ。


 「ほら見ろ、俺たちの秩序を壊した結果がこれだ」。


 そんな無言の糾弾が、痛いほどに伝わってくる。

 投手の指先からボールが離れる瞬間から、打者がスイングし終えるまでの「わずか1秒足らず」の時間。

 その1秒の主導権を、論理によって完全に奪い取られていた。


 カキィン!

 カキィン!

 金属音が、残酷なまでに続く。

 湊の指先から飛び散る汗の「白」が、暴力的な夕日の中で虚しく乱反射する。


「タイム!」


 佐伯が、耐えきれずにマウンドへ走る。

 だが、佐伯の顔にも、明確な焦りの色が浮かんでいた。

 配球が、すべて読まれている。

 相手の「技巧派(青)」と「神経質型(緑)」という分類すら、彼らのAIは「そう分類してくるであろう」ことを見越して、逆手を取ってきているのだ。


「湊……どうする。ストレートも、バルカンも、全部完全に張られてる」


「……」


 湊は、返事ができなかった。

 右腕の前腕が、不自然な熱を持ち始めていた。

 筋肉が、神経が、これ以上の投球は自らを破壊すると、脳内の防衛本能リミッターを通じて警告の脈動を打っているのだ。


 3回表が終了した。

 スコアボードには、「0-3」の数字が冷たく輝いている。

 マウンドを降りる湊の足取りは、鉛のように重かった。

 右腕が、ピクリと不気味に跳ねる。

 ベンチに戻る彼を迎えたのは、3年生たちの凍りつくような沈黙だった。

 熱い炎を宿して立ち上がったはずの新生・聖隷高校。

 その希望が、冷徹な論理の前に、今、音を立てて崩れ去ろうとしていた。

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