第55話:解体された巨像
第55話:解体された巨像
アスファルトを叩く雨の音が、重く響いていた。
4回戦の翌日。
聖隷高校のグラウンドは、一面の泥の海と化していた。
伝統校・横浜清稜を破った、あのサヨナラ勝ちの余韻は、どこにもない。
部室棟の軒下。そこには、息が詰まるほどの不協和音が満ちていた。
エースの豊田零司の姿は、今日もグラウンドになかった。
マウンドに君臨し続けた150キロの剛腕。チームの絶対的な「武」の象徴。それが、今は影も形もない。
正捕手の黒田一は、下級生たちが泥のついた用具を洗うのを手伝おうともせず、ただ一人で部室の奥にこもっていた。
薄暗い部屋の中、外されたレガースが、冷たい光を鈍く反射している。
「……これが、終わりってことかよ」
誰かが小さく呟いた。声は雨音にかき消される。
昨日、確かに何かが壊れた。3年生たちが築き上げてきた、絶対的な秩序。
それは1年生の投げる122キロの「狂気」によって、跡形もなく解体されたのだ。
灰色に濁った空から、冷たい雫が容赦なく降り注ぐ。
ユニフォームの白は、容赦なく茶色い泥に染まっていく。
勝ったはずのチームが、まるでバラバラに砕け散った死体のように静まり返っていた。
「――次の相手、これを見て」
部室の片隅。結城陽葵が、雨の湿気で歪むノートパソコンの画面を指さした。
液晶の冷たい光が、彼女の険しい横顔を白く照らす。
画面に映し出されていたのは、無機質なグラフと、膨大な数字の羅列だった。
「5回戦の相手は、栄光学館。東大進学者を多数輩出する超進学校でありながら、最先端のセイバーメトリクスを駆使するデータ集団だよ」
陽葵の声は固かった。
「彼らのシステムには、もう君のデータが入ってる。一条湊。ストレートの平均球速121.8キロ。平均回転数2405rpm。リリースポイントの傾き。……すべてが完全に解析されている」
陽葵の手が、キーボードの上で止まる。画面のグラフが赤く明滅した。
「彼らにとって、君の『バグ』はもう、予測可能な数値に過ぎない。初見の衝撃が通用しない相手。データを信じる彼らは、122キロの軌道を完全に『読んで』スイングしてくる」
その言葉が、部室の冷気の中に重く落ちた。
湊は何も言わずに、ただ自分の右腕を見つめていた。
前腕だけが、異常なほどに発達している。壁当ての反復によって鍛え上げられた筋肉の繊維が、まるで別の生き物のように皮下で隆起していた。
「おい」
背後から、刺すような声がした。
ベンチ外の1年生、氷室零だった。
145キロの剛速球を持ちながら、回転数の低さゆえに「最も打ちやすい棒球」と揶揄される左腕。
氷室の目は、赤く血走っていた。その視線が、湊の異形の前腕に突き刺さる。
「お前の、その腕」
氷室の拳が、白くなるほどに握り締められていた。
「お前のその、たった122キロのバグのせいでさ。俺たちの努力が、全部否定されたんだよ」
言葉が、激しい嫉妬の熱を持って部室の空気を燃やす。
「145キロを投げるために、俺がどれだけ走ったと思ってる。どれだけ肩を酷使して、投げ込んできたと思ってる。なのに、お前みたいな美術部上がりの変質者が、全部ぶち壊したんだ。お前がマウンドにいる限り、俺たちの『正しさ』はどこにもねえんだよ!」
氷室の身体が震えていた。
溢れる才能を持ちながら、3年生の圧倒的な圧政に居場所を奪われ、今度は、1年生の狂気に踏みにじられる。その絶望。
「お前の存在そのものが、俺には気に食わねえ」
氷室はそれだけを吐き捨てると、激しく扉を閉め、雨の中へと飛び出していった。
開け放たれた扉から、冷たい雨風が吹き込む。
湊は、引き止めなかった。隣にいた佐伯誠二もまた、静かにミットを磨き続けていた。
誰の言葉も、今の聖隷には届かない。
夜。
雨は、静かに上がっていた。
一条家の庭には、熱気を含んだ闇が広がっている。
湊は一人、ぬかるんだ土の上に立っていた。
手元には、泥のついた硬式球。
目の前には、10年間、何万回とボールをぶつけ続けてきた壁があった。
「壁さん」の表面は、狂気的な反復のせいでボロボロに凹んでいる。
湊は深く息を吐いた。帽子を深く被り直す。
ティム・リンスカムの如き、ダイナミックな歩幅で踏み出す。
重力を拒絶するような跳躍。右腕が、しなる。
パシィィィン!
静寂を引き裂く、乾いた爆音。
凹みに正確に収まったボールが、激しく跳ね返って湊のグラブに収まる。
指先の皮膚は、すでに硬化を通り越して感覚を失っていた。マッサージを繰り返した前腕の筋肉が、限界の軋みを上げている。
脳内の防衛本能が、これ以上の投球は危険だと、静かに警報を鳴らし続けていた。
自分の投げている球は、本当に正しいのだろうか。
データを解析され、仲間から嫉妬され、古い秩序を壊した。その先に、何がある。
父の「センスがない」という言葉が、闇の中から巨大な影となってマウンドを押しつぶそうとしてくる。
「まだ、迷うとるな」
闇の向こうから、低い声が響いた。
近所のおじいさん、田尾さんだった。
野村克也を心から愛する老人が、影の中からゆっくりと姿を現す。
田尾さんは、湊のボロボロに変形した指先を一瞥した。
「『不器用な者が泥にまみれて覚える戦術こそ、本物になる』。ノムさんの言葉や。お前はまだ、自分の毒を信じ切れておらんな」
自分の、毒。
「122キロの球速を、恥じるな。それは、お前が狂気の中で掴み取った『可能性』の形や。綺麗に勝とうとするな。データで綺麗に処理しようとする秀才どもの脳を、徹底的に狂わせる毒になれ。お前には、その覚悟があるはずや」
田尾さんはそれだけを言うと、また夜の静寂へと消えていった。
庭に残された湊は、自分の手のひらを見つめた。
美術部時代、パレットの上で絵の具を混ぜ合わせた記憶が、鮮烈に蘇る。
美しい純色ではない。
赤と、青と、黒を、執念深く混ぜ合わせた、あの濁った色。
キャンバスの上で、最も深い「影」を作り出すのは、いつだってあの、濁った絵の具だった。
「……濁ればいい」
湊は小さく呟いた。
綺麗で洗練された150キロになれないのなら、徹底的に泥にまみれた122キロの毒になってやる。
もう一度、ボールを握る。
指先の痛みが、心地よかった。今度は、迷いはなかった。
翌朝。
グラウンドは、強烈な朝日に照らされていた。
湿った土から、熱気が陽炎となって立ち上り、景色をぐにゃりと歪ませている。
部室の前に、全部員が集まっていた。
誰もが、沈黙していた。3年生も、2年生も、1年生も。
鬼塚監督が、無造作に一枚の白い紙を掲げた。
5回戦、栄光学館戦のスターティングメンバー表だった。
全員の視線が、その紙へと集中する。
張り詰めた静寂の中、紙がボードにピンで留められた。
その、一番上の欄。
『投手 豊田』の文字は、そこにはなかった。
そこに刻まれていたのは、無機質な、しかし絶対的な数字と名前。
【投 手 20 一条 湊】
「――おい」
誰かの息が漏れた。
3年生たちの視線が一斉に動き、一条湊の背中に突き刺さる。
それは、歓喜でも期待でもない。
鋭いナイフのような、明確な敵意と、冷徹な拒絶。
かつてマウンドを支配していた豊田零司が、初めて湊を、冷たい瞳で真っ直ぐに見つめていた。
聖隷高校の巨像は、完全に解体された。
そして、泥の中から、熱い炎が静かに頭をもたげようとしていた。




