第43話:論理の処刑
第43話:論理の処刑
熱気が、ねっとりと肌にまとわりつく。
六回裏、聖隷高校の攻撃。ノーアウト一塁という絶好の追加点のチャンスは、鳴海聖の放った「完璧なはずの」ライナーがショートの正面を突く併殺打に終わり、一瞬で瓦解した。
二死走者なし。
歓声が止んだ保土ヶ谷球場に、砂塵を巻き上げる風の音だけが虚しく響く。
「……ありえない」
ベンチの最前列、柱を握る一条湊の指先が白く変色していた。
美術部で培った動体視力と観察眼が、今のプレーの「異様さ」を網膜に焼き付けている。
ショートの高橋は、鳴海がスイングを開始する直前、あらかじめ三遊間の深い位置へ一歩分、重心を移動させていた。
「陽葵さん……今の、偶然じゃないですよね」
隣に立つ結城陽葵は、開いたままのノートを震える手で抑えていた。数式と確率論で埋め尽くされたそのページが、今は敗北の予言書のように見える。
「ええ。私たちの分析では、鳴海くんは外の球を強引に引っ張る傾向がある。だから相模原は一二塁間を締めるはずだった。なのに、彼らは逆の三遊間を『待っていた』。……これは予測じゃないわ、湊くん。私たちの『予測の裏』を、彼らが既に回答として持っているということよ」
相模原重工附属のベンチ。
捕手の鈴木が、一切の感情を排した瞳で、こちらを見据えていた。
彼は知っているのだ。聖隷がデータを重視することを。結城陽葵というアナリストが導き出す「正解」を。
そして、その正解を信じて動く聖隷の心理そのものを、彼らは「定数」として計算式に組み込んでいる。
「僕たちが『知』で戦おうとすればするほど、相手のアルゴリズムに飲み込まれていく……」
湊の腕が、じりじりと熱を帯びる。
(思考が盗まれている。脳をハッキングされているような感覚だ)
「バッター、八番、山倉くん!」
アナウンスが流れ、遊撃手の山倉が打席へ向かう。
だが、ベンチの空気は冷え切っていた。
豊田はベンチの隅でタオルを頭から被り、動かない。
鳴海は先ほどの併殺打に納得がいかないのか、自分のバットを睨みつけて立ち尽くしている。
その時、鬼塚監督の低く鋭い声が響いた。
「佐伯、筧。行け」
ブルペンへと続く通路へ、三年生左腕の筧翼が、捕手の佐伯誠二と並んで立ち上がった。
八回からの登板に備えた、最終調整の合図だ。
「……わかってるよ、監督」
筧が「七色のカーブ」を操る左腕を軽く回す。
筧のフォームは、しなやかさと美しさを併せ持つが、今の筧の瞳にあるのは、逃げ場のないプレッシャーだった。
「佐伯、相模原のやつら、俺の球種を全部知ってるみたいな顔してるな。……俺のカーブ、通用すると思うか?」
佐伯は、愛用のミットを力強く叩いた。
パンッ。
その乾いた音が、通路の壁に反響する。
「知られてるなら、知らない球を投げるだけですよ。筧さんのカーブは七色あるんですよね? 八色目を見せてやりゃいいんですよ」
佐伯の強気な言葉。
この捕手だけが、崩壊しかけている聖隷の「知」を、辛うじて繋ぎ止めていた。
マウンド上の相模原・斉藤が、山倉に対して初球を投じる。
ドシュッ。
インコース、膝元に突き刺さる135キロ。
山倉は手が出ない。ストライク。
「……バッターの『踏み込みの深さ』を見て、リリースポイントをずらした」
湊は、ベンチの影で独り言のように呟いた。
斉藤の投球直前の「静止」の癖。それは陽葵が見抜いた攻略ポイントだったはずだ。
だが、今の斉藤にはその癖がない。
わざと癖を見せていたのか。あるいは、試合中にその癖を修正したのか。
(違う。……あいつら、僕たちが『癖を見つけた』ことに気づいて、それを餌に誘い込んだんだ)
窒息しそうな論理の迷宮。
(マウンドに上がらない僕に、何ができる?)
二球目。
斉藤の手からボールが離れた。
山倉がバットを振る。
カッ。
高く上がったキャッチャーフライ。
鈴木が悠々と落下点に入り、ミットを掲げる。
三死。チェンジ。
リードしているのは聖隷。
3対2。
スコアボードの上では、勝利に近いのは彼らのはずだ。
しかし、ベンチに戻ってくる山倉の顔には、まるでサヨナラ負けを喫したような、深い絶望の色が張り付いていた。
「……何も、させてもらえない」
山倉が漏らしたその言葉は、聖隷ナイン全員の代弁だった。
湊は、ブルペンへ向かう佐伯と目が合った。
「湊。……お前なら、どう解く。このクソッタレな数式を」
佐伯の問いに、湊は答えられなかった。
ただ、自分の指先から、炎のような熱が立ち昇るのを感じていた。
「七回表、相模原重工附属の攻撃は……」
場内アナウンスが、処刑の再開を告げる。
聖隷高校のベンチは、勝利の重圧と、理解不能な「知」への恐怖に、静かに飲み込まれようとしていた。




