第42話:死に至る計算
第42話:死に至る計算
保土ヶ谷の空は、暴力的なまでの青を湛えている。
六回表、相模原重工附属の猛攻を鳴海聖が「一球」で断ち切った。
一死満塁からのダブルプレー。
3対2。薄氷のリードを保ったまま、崩壊寸前だった聖隷ベンチに、ようやく熱を帯びた酸素が流れ込む。
守備陣がマウンドから戻ってくる。
外野の守備位置から、豊田零司が重い足取りでベンチへ足を踏み入れた。
エースの降板という重苦しい事実が、砂埃と共にベンチの床に沈殿する。
誰も声をかけられない。三年生の仲間たちですら、豊田の蒼白な横顔に言葉を失っていた。
だが、その沈黙を破ったのは、ベンチの端で声を枯らしていた湊だった。
「豊田さん、タオルです!」
湊が、震える手で冷えたタオルを差し出す。
豊田はそれを受け取ろうとせず、湊の目を真正面から射抜いた。その瞳には、自分の「絶対」を解体された絶望と、それを予見していた下級生への複雑な情念が混じり合っている。
「……一条。お前の思った通りになったな。俺の150キロは、あいつらにとってはただの『定数』だった」
「違います。」
湊の返答は即座だった。
豊田の鋭い視線に気圧されることなく、湊は美術部特有の「透視」を働かせる。
「豊田さんの150キロがあったから、相手は『それ以外』を捨てるしかなかった。今の相模原の頭の中は、豊田さんの残像で飽和しています。脳が150キロの軌道に最適化されている。……だから、同じ腕の振りから微妙に軌道を狂わせる鳴海さんなら、『バグ』を通せるんです」
湊の言葉には、慰めなど微塵もなかった。
ただ、残酷なまでに正確な戦術的分析があるだけだ。
豊田はしばらく湊を見つめていたが、やがて鼻で笑い、乱暴にタオルをひったくった。
「理屈野郎が……」
豊田がベンチの奥へ消える。
入れ替わるように、バットを握った六番・蔵敷徹が立ち上がった。
「鳴海。流れを掴むぞ」
「言われなくても! 俺が抑えたんだ、一本出さなきゃ承知しねぞ!」
鳴海がベンチで次の打席に備える。
その隣で、陽葵がノートを湊に見せた。
「相模原の先発、斉藤くん。六回に入って、カーブのリリースがわずかに早まっているわ。腕が振れていないわけじゃない。豊田さんとの投げ合いで、精神的なスタミナを削られてる」
「……『静止』の癖。斉藤くんは投球直前、グラブが一瞬止まる。そこに全神経を集中させてください」
湊の声が、攻撃へと向かう野手陣に飛ぶ。
六回裏、聖隷高校の攻撃。
蔵敷がバッターボックスに入り、巨躯を揺らす。
初球。
斉藤のグラブが、湊の指摘通り、トップの位置でコンマ数秒長く止まった。
(——今だ!)
蔵敷のバットが唸りを上げる。
「迷いは筋トレで上書きしろ」と嘯く男の、文字通り迷いのないスイング。
鋭い打球が斉藤の足元を抜け、センター前へ。ノーアウト一塁。
「っしゃあ! 続くぞ!」
七番・大島に代わり、鳴海が打席へ向かう。
鳴海は、バットを短く持ち、不敵な笑みを浮かべてボックスに入った。
「おい鳴海! お前が繋げばチャンスだぞ!」
ベンチの三年生たちが野次を飛ばす。
しかし、湊の視線は打席ではなく、三塁側ベンチの相模原の捕手、鈴木に向けられていた。
鈴木は、蔵敷のヒットに動揺した様子もなく、淡々と内野守備に指示を送っている。
そして、その口角が、微かに、吊り上がったのを湊は見逃さなかった。
(……おかしい。今のヒットは、僕たちの『読み』が勝ったはずだ。なのに、どうしてあんな顔ができる?)
結城の脳裏に、不吉な計算式が浮かぶ。
相模原重工は、聖隷が「データの裏をかいてくること」すら、既に計算に組み込んでいるのではないか。
「鳴海くん、待って! 初球の入り方は——」
結城の制止は、鳴海の強引なスイングに掻き消された。
パシィィン!
乾いた音が響く。
鳴海が捉えた打球は、三遊間を抜ける完璧な当たりに見えた。
だが。
「……え?」
ショートの高橋が、まるでそこにボールが来ることが分かっていたかのように、一歩も動かずに打球をグローブに収めた。
飛び出していた一塁ランナーの蔵敷。
高橋から一塁への矢のような送球。
ダブルプレー。
一瞬にして、聖隷の追加点のチャンスが霧散した。
保土ヶ谷球場が、冷ややかな静寂に包まれる。
湊は、ベンチの柱を強く握りしめた。
前腕の筋肉が、怒りか、あるいは恐怖か、異常なまでの拍動を繰り返している。
「陽葵さん。……相模原、これって…」
「ええ。今の打球方向の予測値、私たちの分析と真逆だわ。……彼ら、私たちの『読み』そのものを逆手に取ってる?」
陽葵の声が震える。
湊は相手ベンチを見た。
捕手の鈴木が、こちらを見て、静かにノートを閉じた。
それは、聖隷の「知」が、さらに巨大な「知」によって支配されていることを意味していた。




