第41話:毒には毒を
第41話:毒には毒を
「……ボールフォー!」
審判の無機質な宣告が、炎天下のスタジアムに突き刺さる。
豊田零司が放った渾身のストレートは、打者の手元でわずかに外れ、キャッチャー黒田のミットを虚しく叩いた。
押し出し。
3-2。
保土ヶ谷球場のボルテージが、異様な熱を帯びて膨れ上がる。
アウトの取り方を忘れたかのように、マウンド上の王者は立ち尽くしていた。
「タイム!」
聖隷ベンチから、背番号12の佐伯が飛び出した。監督の鬼塚はベンチの最前列で腕を組み、鋭い眼光をマウンドへ向けている。
鬼塚は伝令の佐伯に全てを託した。
マウンドに駆け寄った佐伯は、内野陣の輪を割って豊田の前に立った。
「豊田さん、監督からの伝令です。『交代だ』と」
「待て、佐伯。まだ、投げられる。」
豊田の声が裏返る。
エースの意地。150キロの誇り。それが、相模原重工という「静かなる怪物」に喉元まで食らわれ、ボロボロになりながらもマウンドを離れようとしない。
佐伯は、鬼塚から預かった言葉を、一語一句違えずに告げた。
「『勝負事に絶対はない。あるのは最善の準備と、非情な決断だけや』……監督の言葉です。豊田さんは最高だった。でも、今の相模原は豊田さんの『最高』をすでにアルゴリズムに組み込んでいる。このままでは、チームが死ぬと」
豊田の拳が、ユニフォームの生地を白くなるほど握りしめた。
視線の先。湊が自分のグラブを見つめて立っている。
代わるのは、あいつか?
俺を否定し、理屈という泥を塗りたくったあの一年生が、俺の汚したマウンドを掃除しに来るのか?
「ピッチャー、交代——鳴海」
場内アナウンスが響く。
豊田の肩が、わずかに揺れた。
「……鳴海、か」
ベンチから飛び出してきたのは、湊ではなく、二年生の鳴海聖だった。
マウンドへ向かう鳴海の表情は、いつもの飄々とした「猛獣」のそれではない。唇を噛み、豊田の屈辱をそのまま自分の胸に転写したような、鋭い眼光を宿していた。
「豊田さん。……グラブ、叩いてもいいっすか」
鳴海が、豊田の前に立つ。
豊田は無言で、自らの左手を差し出した。
パンッ!
乾いた音が響く。それは継承の合図であり、豊田が敗北を認めた残酷な音でもあった。
「……鳴海。あいつら、俺のフォークまで読んでる」
「知ってます。一条と結城がノート真っ黒にして騒いでましたから。……でも、大丈夫っすよ。俺、豊田さんみたいに『正しく』ないんで」
鳴海が不敵に笑う。
豊田は力なくマウンドを降りた。
外野へ向かう豊田の背中に、仲間たちの沈痛な沈黙が突き刺さる。
「さあ! 行くぞ相模原! 俺を打てるもんなら打ってみろ!」
マウンド上の鳴海が、野太い声で叫んだ。
審判に注意されるほどのうるささ。
その刹那、凍りついていた聖隷ベンチの空気が、わずかに緩んだ。
蔵敷が、一塁ベースから「うるせえよ鳴海!」と怒鳴り返す。
一死満塁。打者は九番・斉藤。
相模原重工の計算機は、鳴海という「予測不能な猛獣」をどう弾き出すのか。
「陽葵さん。データ、出ましたか」
ベンチで湊が、陽葵のノートを覗き込む。
陽葵は、相模原重工の映像を頭の中で再生しながら、素早くペンを走らせていた。
「鳴海くんの『スラッター』は、豊田さんのストレートとリリースの瞬間の指の動きが酷似している。でも、回転軸が15度違うわ。……相模原の打者は、豊田さんの『残像』を追えば追うほど、鳴海くんの球を芯で外す」
「……毒には、毒を。ですね」
湊の瞳に炎が宿る。
鳴海が大きく振りかぶる。
ダイナミックなフォームから放たれた一球。
142キロ。
ストレートと同じ軌道から、打者の手元で「斜め下」に爆発するように変化するスラッター。
ガキンッ!
狙い澄ましていたはずの斉藤のバットが、空を斬るような音を立ててボテボテのピッチャーゴロに変わる。
「ホーム! ホームだ!」
鳴海がボールを掴み、叫びながらホームへ送球。
黒田が捕球し、一塁へ転送。
1-2-3。
最悪の場面を、鳴海は「一球」で断ち切った。
「っしゃあああ! 見たか! 」
鳴海がベンチに向かって吠える。
ベンチに戻ってくる鳴海を、下級生たちがハイタッチで迎える。
三年生の黒田も、マスクを外して荒い息をつきながら、鳴海の背中を乱暴に叩いた。
溝が消えたわけではない。
だが、湊と結城の「知」が、鳴海の「勇」を動かし、豊田の「武」が残した傷跡を塞ぎ始めている。
3-2。
試合は、誰も予想しなかった「泥仕合」の深淵へと、さらに潜り込んでいく。
ベンチの奥。
湊は、自分の前腕を静かにさすった。
神経が、じりじりと熱を帯びている。
(まだだ。……相模原の『学習』は、こんなもんじゃない)
湊の観察眼は、相手ベンチで淡々とノートを広げる鈴木捕手の、微かな口角の上がりに気づいていた。




