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リミッター・ハイ  作者: あめたす


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第40話:計算違いの咆哮

第40話:計算違いの咆哮


 心臓の鼓動が、耳元で早鐘を打っている。

 夏の湿った空気が、肺の奥で熱くどろりと滞留する。

 豊田零司は、マウンド上でロージンバッグを強く叩きつけた。白い粉が舞い、視界をわずかに遮る。


(……偶然だ。ただの偶然の一発に過ぎない)


 自分に言い聞かせる。先ほどの連打。レフトフェンスを直撃した四番・伊藤の打球。

 あれは俺のベストピッチだった。152キロ。黒田さんのミットを突き破らんばかりの剛球。

 それを、あいつらは「作業」のように弾き返した。


「タイム!」


 三塁側ベンチから監督の声が飛ぶ。内野陣がマウンドに集まってくる。

 キャッチャーの黒田が、マスクを外して豊田を睨み据えた。その瞳には、かつてない困惑が混じっている。


「零司、コースが甘いわけじゃない。だが……あいつら、迷わず振ってきやがる。狙い打ちだ」


「分かってる。スライダーを捨てて、真っ直ぐに絞ってるんだろ。……次は、沈める」


 豊田は吐き捨てるように言った。集まった内野陣——蔵敷や山倉が、顔を見合わせる。

 いつもなら「俺を信じて守れ」と言い切る豊田の背中に、今の彼らは冷たい汗の匂いを感じ取っていた。


 再開。ワンアウト一、二塁。

 バッターは六番・鈴木。相手の正捕手だ。

 豊田はセットポジションから、執念を込めて腕を振る。

 真っ直ぐの軌道から、手元で鋭く落ちるフォーク。

 空振りを奪う——そのはずだった。

 コツン。

 鈴木は、まるで最初からそこにボールが来ると知っていたかのように、ノーステップでバットを合わせた。

 打球は一、二塁間を軽々と抜けていく。

 右翼手の桐生が懸命にバックホームするが、二塁ランナーが滑り込み、一点。


 3-1。


「……っ!」 


 豊田はマウンドを蹴り上げた。

 何かがおかしい。

 フォークは今日、一度も投げていなかったはずだ。配球の癖か? フォームの微かな違いか?

 ふと、一塁側ベンチに視線を投げた。

 

 そこには、ベンチの端で身を乗り出す湊の姿があった。

 湊は、陽葵が持つノートを指さし、何かを叫ぼうとして、隣に座る佐伯に肩を掴まれている。

 湊の表情は——恐怖に染まっていた。

 彼が恐れているのは、豊田の炎上ではない。

 相模原重工という「機械」が、豊田という「神」を完全に解体し終えたことへの、技術的な戦慄だ。


(一条……お前、何が見えている……!)


 豊田の心に、得体の知れない苛立ちと、一滴の絶望が混じる。

 続く七番・田中。

 黒田の構えは、インコース低めの厳しいところだ。

 豊田は渾身の力で151キロを投げ込む。

 だが、田中はピクリとも反応しない。ボール。

 

 続く二球目。外角に逃げるスライダー。

 これも見送られる。ボール。

 

 まるで、豊田の指先から放たれるボールの行方が、投じる前にモニターに映し出されているかのようだった。

 

「……待て」

 

 豊田はマウンド上で、自分を嘲笑うような「静寂」を感じた。

 相手ベンチの監督、山崎。彼は腕を組み、微動だにせず戦況を眺めている。

 その視線は豊田を見ていない。豊田の「影」、すなわち黒田のリードの「癖」を、透視するように見つめている。

 

 陽葵のレポートにあった言葉が、豊田の脳裏をよぎる。


『彼らは自分たちが打つのではなく、相手を自滅させることに特化している』。


 カラン、と乾いた音がした。

 力みから指先が狂い、投げたボールが田中の背中をかすめる。デッドボール。

 ワンアウト満塁。


「タイム、タイムだ!」

 

 今度は監督ではなく、黒田がマウンドへ駆け寄る。

 

「零司! 落ち着け! お前の真っ直ぐが走ってないわけじゃない!」

 

「……うるさい」

 

「なんだと?」

 

「うるさいって言ってるんだ、黒田!」

 

 豊田の咆哮が、静まり返った球場に響き渡った。

 三年生の絆。伝統の「武」。

 それが今、相模原重工という精密機械の前で、ただの「脆い感情」へと成り下がっていた。

 

 ふと、視界の端に、ベンチの前で湊が、監督の鬼塚に何かを進言しているのが見えた。

 

 豊田は、自分が汚されるのを感じた。

 自分のマウンド。自分の領域。

 

「……ふざけるな」

 

 豊田は、土を強く踏みしめる。

 指先は震えている。だが、その震えは武者震いではない。

 自分の誇りが、データという名の「正解」によって、無惨に剥ぎ取られていくことへの、根源的な恐怖だった。

 

 ワンアウト満塁。バッターは八番・渡辺。

 相模原重工の「意外性の男」が、不気味な笑みを浮かべてバッターボックスに入る。

 

 豊田零司の、絶対王者としてのプライドが、今、最後の一線で悲鳴を上げていた。

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