第39話:絶対者の侵食
第39話:絶対者の侵食
保土ヶ谷球場のマウンドは、白熱する太陽に焼かれ、陽炎がゆらゆらと立ち上っていた。
一歩、足を踏み出す。スパイクが乾いた土を噛む感触。
豊田零司は、帽子のつばを指でなぞり、深く被り直した。
(……暑苦しいな)
視線の先には、相模原重工附属の先頭打者。
一塁側ベンチからは、三年生たちの野太い声援が飛んでくる。一回戦、あの一年生の「奇術」に狂わされた空気を、自らの剛腕で上書きしてほしいという渇望。
「おい、零司! 腕振っていけよ!」
「全部ねじ伏せてこい!」
黒田がミットを叩き、インハイに構える。
豊田は無言で頷き、セットポジションに入った。
全身のバネを圧縮し、爆発させる。斉藤和巳を彷彿とさせる高いリリースポイント。
ドォォン!
捕球音というよりは、破裂音だった。
球速表示、151キロ。
打者は一歩も動けず、審判の右手が上がる。
「いいぞ、豊田!」
「これだよ、これこそが聖隷の野球だ!」
スタンドが沸き、ベンチの下級生たちは背筋を伸ばす。
この圧倒的な「武」。
これさえあれば、小賢しいデータも、バグを起こす122キロも必要ない。
豊田は心の中で、ベンチの端に座る湊を冷ややかに見下ろした。
(見ているか、一条。お前の言う『理論』など、この一球の前では何の意味も持たない)
二球目、三球目。
いずれも150キロ近い直球で、あっさりと三振を奪う。
続く二番、三番も、寄せ付けない。
三者連続三振。
だが、ベンチへ戻る豊田の首筋を、妙な寒気が撫でた。
相模原重工の三番打者。三振を喫し、ベンチへ引き上げる彼の表情に、悔しさがなかったからだ。
むしろ、獲物を観察する学者のような、冷徹な視線。
「ナイスピッチ、さすが豊田さん」
ベンチに戻ると、次期エースを自負する鳴海がタオルを差し出してきた。
その隣。
湊は、分厚いノートを抱えた陽葵と並び、相手ベンチを凝視していた。
「……一条。何を見てる」
豊田が冷たく問いかける。
湊は視線を動かさず、静かに口を開いた。
「……剥離です」
「あ?」
「豊田さんの球威と、相手打者の『スイングの迷い』が、一打席ごとに少しずつ剥がれていっている。……彼ら、空振りをしながら豊田さんのリリースのタイミングを『学習』しています」
「ふん。150キロを学習して打てるなら、誰も苦労はしねえよ」
後ろから黒田が割り込み、湊を突き飛ばすようにして豊田の隣に座った。
「零司、気にするな。あいつは野球を理屈で汚したいだけだ。次もインハイで押していくぞ。管理野球だか何だか知らねえが、手も足も出させなきゃいいんだ」
三年生たちの同調。
聖隷のベンチには、勝利を確信した明るい空気が流れている。
しかし、それは湊たちの座る「下級生エリア」との間に、目に見えない深い溝を作っていた。
六回表。
スコアは3-0。聖隷が着実にリードを広げている。
豊田の球数は40球を超えた。
マウンドに上がった豊田は、四番の伊藤に対し、今日一番の腕の振りを見せた。
指先にかかる最高の感覚。
152キロ。完璧なインコース。
――ガキィィィン!
鼓膜を劈くような打球音。
豊田の目の前を、白い閃光が通り抜けた。
打球は、一瞬でレフトフェンスを直撃した。
「……なっ!?」
黒田が立ち上がり、呆然とボールの行方を見送る。
豊田の脳内が、真っ白に染まった。
今の球は、失投ではない。
最高に近い「武」の結晶だったはずだ。
続く五番・小林。
豊田は苛立ちを隠せず、外角低めにスライダーを投じる。
これも、狙いすましたように三遊間を抜かれた。
(……どうなっている。なぜ、全部合っている?)
豊田の視界が、じわじわと狭くなる。
相模原重工のベンチから、一糸乱れぬ拍手が響く。
彼らの打撃には、熱がない。
ただ、淡々と「正解」を導き出した後の、冷たい作業の匂いがする。
ノーアウト一、二塁。
マウンドに、焦燥という名の毒が侵食し始める。
ふと、三塁側ベンチを見た。
そこには、立ち上がって自分を見つめる湊の姿があった。
その瞳は、心配でも、落胆でもない。
「……やっぱり。タイミングが合ってきた」
湊の声は届かない。
だが、その無言の視線が、豊田のプライドを内側から切り裂いていく。
エースとしての「絶対」が崩れ始める。
聖隷のベンチから、先程までの活気が、嘘のように消えていた。




