第35話:156キロの暴力
第35話:156キロの暴力
「……化け物かよ」
誰の口から漏れた言葉だったか。
聖隷高校のベンチが、静まり返る。
横浜スタジアムの電光掲示板。そこに刻まれた「156」という無機質な数字が、これまでの試合の流れを強引に引き戻していた。
マウンドに立つ鎌倉インターナショナルの守護神、サミュエル。
195センチの巨躯が、夕日に照らされて巨大な影をホームベースまで伸ばしている。
その右腕が一閃するたび、乾いた破裂音がスタジアムに響き渡った。
バチュンッ!
「ストライク! バッターアウト!」
聖隷の代打、乾が手も足も出ずに三振に倒れる。
粘りを得意とする乾でさえ、ボールをバットに当てることすら許されない。
速い。あまりにも速い。
それは湊の「脳をバグらせる122キロ」とは対極にある、圧倒的な出力による「拒絶」だった。
「……湊、見てるか」
アイシングを受ける湊の隣で、佐伯が低く呟いた。
佐伯の瞳は、マウンド上のサミュエルの挙動をミリ単位で追っている。
「あれが、お前の父さんが言っていた『センス』の権化だ。物理法則そのものをねじ伏せる力。理論も、観察も、全部まとめてゴミ箱に捨てるような暴力だ」
湊は、感覚の消えた指先をじっと見つめる。
アイシングの冷気が、骨の芯まで浸透していく。
昨夜の記憶が蘇る。
1キロの鉛玉を、湊は部屋で弾く。
指先の腹が充血し、鉛球を弾く瞬間指先に痛みが走る。
痛みを消すために、脳がアドレナリンを過剰に分泌させる。
視界が異常に研ぎ澄まされ、空気中の埃の動きさえもが見えるような、あの「狂気」の時間。
「……知ってるよ、佐伯。あんなのは、僕には一生手に入らない」
湊の言葉に、隣で氷嚢を押さえていた仁衣菜の手が止まる。
仁衣菜は、湊の横顔を覗き込んだ。
いつもの自信なさげな表情ではない。
キャンバスに向かう時と同じ、冷徹な「観察者」の眼。
「でもね。色が強ければ強いほど、影も深くなる。156キロの光が強いなら、その裏側にある『死角』は、誰よりも暗いはずだ」
9回表。
同点のまま、鎌倉の攻撃。
マウンドには再び湊が上がる。
スタジアムの観客は、先ほどのサミュエルの剛速球に毒されている。
その後に現れた湊の「120キロそこそこ」の球速表示に、心ない嘲笑が混じり始めた。
「おいおい、156キロの後で120キロかよ」
野次は、湊の耳には届かない。
帽子を深く被り、ストッキングを上げたオールドスタイル。
湊は、打席に立つサミュエル本人を凝視する。
投手でありながら、サミュエルは打者としても規格外の力を持っていた。
(サミュエルは『赤』。直感型の極致)
湊は、セットポジションから左足を高く上げる。
ティム・リンスカム。そのダイナミックな跳躍。
重力加速度を最大限に利用し、180センチの体を極限までしならせる。
脳内リミッターが、警告音を最大音量で鳴らす。
肩の腱が、限界を超えて引き絞られる。
パンッ!
一球目。
内角を抉るツーシーム。
121キロ。
サミュエルが鼻で笑い、バットを軽く振った。
だが。
――当たらない。
バットが空を切る。
サミュエルの表情から余裕が消え、困惑が混じる。
「速い球」に慣れきったサミュエルの脳が、湊の「腕の振りと球速のギャップ」を処理しきれない。
「ストライク!」
二球目。
湊は、さらに指先に意識を集中させる。
昨日、指を痛め掴んだ感覚。
「センスがない」という父の言葉を呪いとしてではなく、自分を磨くための「ヤスリ」として使う。
ファッ!
外角へ緩いパラシュートチェンジ。
76キロ。
あまりの緩急に、サミュエルの巨体が大きく崩れる。
空を切る乾いた音。
「ストライク、ツー!」
スタンドが、静まり返った。
156キロの怪物を、120キロの「異能」が翻弄している。
「あいつ……」
ベンチで豊田が立ち上がった。
自分を粉砕したサミュエルが、湊の前に跪こうとしている。
追い込んだ。
三球目。
湊の視界から、すべてのノイズが消える。
空の青。土の茶。
そして、2400rpmで回転する白。
「野村さんは言った。勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」
湊が、マウンドで吠えた。
「僕の122キロが通用する理由は、理論じゃない。僕がこの10年、壁にぶつけ続けた『絶望』の数だ!」
渾身のリリース。
天から舞い降りるような美しい指の離れ。
瞬間。
ボールが、重力を無視してホップした。
サミュエルのフルスイング。
156キロを投げる筋力が、空気を爆発させる。
だが、白球はそのスイングの軌道を、あざ笑うように飛び越えていった。
バチュンッ!
佐伯のミットが鳴り響く。
「ストライッ! バッターアゥッ!!」
スタジアムが、熱狂の渦に飲み込まれる。
サミュエルは、信じられないものを見たという顔で立ち尽くしていた。
湊は、静かに帽子を被り直す。
9回裏。聖隷高校、最後の攻撃。
スコアは、4対4。
湊の作った「狂気の流れ」は、今、チーム全体へと伝染していた。
次打者席には、エースの誇りを打ち砕かれた男、豊田零司が立っていた。




