第34話:崩壊するプライド
第34話:崩壊するプライド
「……何でだよ」
聖隷高校のベンチ。
エース、豊田零司が吐き捨てるように呟いた。
その拳は白くなるほどに握りしめられ、微かに震えている。
150キロ。自分があらゆる犠牲を払って到達した「武」の極致が、鎌倉インターナショナルのパワーに飲み込まれた。
それなのに。
マウンド上で淡々と「122キロ」を投じる1年生が、その猛獣たちを赤子のように捻っている。
「豊田、落ち着け」
黒田が低く制するが、その黒田の瞳にも動揺の色は隠せない。
自分が「邪道」と切り捨てた、湊の浮き上がる直球。
それが今、スタジアムの空気を支配している。
「……やっぱり認めねえ。あんな、おちょくったような球が…」
豊田の背中から立ち上る、どろりとした焦燥感。
その視線の先で、湊は再びセットポジションに入っていた。
8回表。鎌倉の攻撃。
バッターは4番、巨漢のバティスタ。
湊は、指先の感覚を再び確認する。
アイシングで感覚を飛ばした指先。だが、深層の神経だけが、火傷をしたような熱を持って脈打っている。
(美術で教わった……。真っ白なキャンバスに、一番最初に引く線。それが一番重要で、一番怖い)
湊は、マウンドの土を黒い「レッドスター」で薄く削る。
(バティスタは『黄』。パワー型の豪快型だ。ポイントは前方。なら、一気に懐を突く)
キィィィィン、という幻聴。
脳内のリミッターが、危険信号を鳴らす。
腕を振るスピードは150キロ、しかし放たれる球は120キロ。
この「速度の不一致」は、湊の肘と肩に、常人には計り知れない負荷を強いる。
まるで、急ブレーキをかけながらアクセルを全開にしているエンジンのように。
パチンッ!
シュォッ!
一球目。
内角高め、顔の近くを通るツーシーム。
バティスタの巨体が、のけぞる。
「……ッ!?」
球速は121キロ。
だが、バティスタにはそれが、砲弾のように迫って見えた。
「ボール!」
審判の声。
湊は表情を変えない。
(恐怖の色が見えた。黄色が、少しずつ青に変わっていく)
二球目。
湊は、マウンド上で密かに「狂気」を反芻する。
昨夜、誰もいない部室で繰り返した特訓。
1キロ刻みの重りを入れたボールを、10センチ単位で投げ分ける。
指先の腹が裂け、血が滲んでも、その感覚を脳に刻みつけた。
「才能がない」と言った父の顔を、壁に変えて。
シャッ!
今度は外角低め。
サークルチェンジ。
ふわりと内角に滑りながら沈む。
バティスタのバットが、泳ぐ。
「ストライク!」
追い込んだ。
「湊、いいぞ! 相手の頭の中、ぐっちゃぐちゃだ!」
捕手・佐伯がミットを叩く。
佐伯は知っている。湊の投球は、物理法則を逆手に取った「脳へのハッキング」であることを。
三球目。
湊は、あえて豊田と同じ、真っ向勝負の構えを見せた。
(ここだ。僕の天井を、突き抜ける)
パチンッ!
放たれたのは、この日最速の122キロ。
垂直に近い回転軸。2400rpmの超回転。
バティスタは、豊田の150キロを打ち返した時と同じタイミングで、バットを振り抜いた。
スタジアム中の音が消えたような、錯覚。
バティスタのフルスイングが、空を裂く。
パシィィィィィン!
ボールは、バットの数センチ上を通過し、佐伯のミットに突き刺さっていた。
「ストライッ! 三振!」
ドォォォォォッ!
割れんばかりの歓声。
「……信じられねえ」
三塁側ベンチの隅で、代打の椛島が震える声で呟いた。
「豊田の150キロを軽々と打ち返した奴らが、あいつの122キロにカスりもしねえ……。これが、俺たちが殺してきた『可能性』なのか」
ベンチに戻ってくる湊。
その右腕は、激しい熱を持っていた。
マネージャーの仁衣菜が、急いで湊の腕を氷で包む。
その吊り目は潤んでおり、手当てをする指先は小刻みに震えていた。
「大丈夫だよ、仁衣菜。……今、僕の絵に、一番いい色が乗ってるから」
「意味わかんない! 」
仁衣菜は鼻をすすりながら、懸命にアイシングを続けた。
その様子を、豊田は遠くから見つめていた。
自分の居場所が、音を立てて崩れていく。
8回裏。聖隷高校の攻撃。
スコアは4対4のまま。
鎌倉インターナショナルは、ここでついに「秘密兵器」を投入する。
「ピッチャー、交代。サミュエル」
マウンドに上がったのは、ドミニカ出身のクローザー。
身長195センチ。
大きく振りかぶったその右腕から、唸りを上げて放たれた一球。
――156km/h。
スタジアムのスピードガンが表示した数値に、誰もが言葉を失った。
湊は、ベンチでその豪速球を見つめる。
(……本物の、怪物だ)
122キロの知略が、156キロの暴力と激突する。
聖隷高校、初戦のクライマックスが近づいていた。




